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大泉荘
【おおいずみのしょう】


旧国名:出羽

(中世)鎌倉初期~戦国期に見える荘園名。「和名抄」に見える古代の田川郡大泉郷にあたるものと思われる。赤川流域の庄内平野に広がる。建久2年に記された長講堂目録(島田文書/県史15上)に「大泉」とあるのが初見。長講堂は後白河法皇の御所六条殿内に設けられた持仏堂。堂領として寄進・施入された荘園は180に及ぶ。建久3年正月日の長講堂定文案(伏見宮記録/鎌遺580)によれば,これらの荘園は法皇の所領として「多年領掌之地」あるいは「往古不輸之領」であったといい,法皇の没後,宣陽門院を経て後深草上皇に伝領され,持明院統の経済的基盤となった。応永14年3月日の宣陽門院御領目録(八代恒治氏所蔵文書/県史15上)には長講堂領の目録が所載されており,「出羽国大泉庄 年貢砂金百両 御馬二疋」「近来国絹二百疋進之」と見える。後白河院の平安末期から後小松天皇の室町初期に至るまで一貫して長講堂領(皇室御領)として伝領されたことがわかる。応永14年当時の年貢は国絹200疋である。砂金100両・馬2疋というのは後白河院の時以来の本来的な年貢品目と思われる。なお,当荘は建久2年10月日の長講堂領目録(島田文書/県史15上)では「元三雑事」以下の年中課役を免除された「不所課庄々」のうちとなっている。遠隔地ゆえに年中四季折々の雑事は免除され,砂金・馬の年貢のみが京進されたと考えられる。鎌倉期,当荘の地頭となったのは大泉(武藤)氏であった。初代大泉二郎氏平は武蔵国の御家人で,鎮西奉行武藤資朝の弟。大泉の名乗りはその所領大泉荘にちなんだものと思われる。「吾妻鏡」建保6年6月27日条によれば,3代将軍源実朝の鶴岡八幡宮(現神奈川県鎌倉市)参宮に際して随兵の役を勤めていた。また同書(吉川本)承元3年5月15日条によれば,「出羽国羽黒山衆徒等」が大挙して鎌倉(現神奈川県鎌倉市)に上り「地頭大泉二郎氏平」を訴えるという事件が起きた。衆徒らによれば,氏平は寺領の福田料田1万8,000枚を押領し,さらには山内の事にまで口入(干渉)したという。羽黒山には将軍家の命によって地頭の進止を受けず,役人の入部・追捕を免除するという特権が与えられており,当山がいわゆる関東(将軍家)御祈祷所となっていたことが知られる。裁判の結果は衆徒らの勝訴となった。なお,鎌倉後期の大泉九郎長氏は将軍家の側近にあり近習・廂番衆・御格子番・御所画番などの役を勤めている(吾妻鏡,建長2年12月27日・正嘉元年12月24日・同月29日・文応元年1月20日などの各条)。羽黒山麓国見(現羽黒町大字玉川)の曹洞宗善見山玉泉寺は九郎長氏の開基か。建長3年の頃この地に至った高麗僧丁然法明の教えに羽州の人々はこぞって帰敬,それを知った「州牧大泉藤原氏(長氏カ)」は「腴田」(良田)を寄進し,諸堂の建立に尽力したという(日本洞上聯燈録/県史15下)。そののち,玉泉寺は室町期の文安4年火災に遭い康正元年に再建された。再建に際しては「大泉魁師藤原右京亮淳氏」「羽州三荘大泉酋師右京亮淳氏」「州守淳氏」が檀越となり越後国耕雲寺(現新潟県村上市)南英謙宗が中興開山となった。名称も国見山玉川寺と改められたが「玉漱軒記」「耕雲種月開基年譜私録」などには「羽州路大泉荘国見玉川禅寺」と記している。なお,鎌倉後期には大泉次郎兵衛尉氏村の名も知られ(吾妻鏡,建長4年8月14日条など),玉泉寺の開基が氏村であった可能性もある。南北朝期の大泉荘は宮方の拠点として知られる。康永2年頃と推定される12月16日・2月21日の藤原公房書状(三浦和田文書/県史15上)によれば,「出羽国大泉庄藤嶋城」の宮方勢が越後国まで攻め寄せたという。明徳5年2月2日足利義満御判御教書案(上杉家文書/県史15上)には,康安元年関東管領・越後国守護上杉憲顕が足利将軍から「出羽国大泉庄,越後国上田庄」を賜った旨が見える。これは大泉荘の宮方討伐の功によるものと思われる。大泉・上田の両荘はともに無主の欠所地として南北両軍の争奪の対象となっていたと思われる。鎌倉末期の両荘が北条氏の所領であったことを推定させるものである。上杉家文書(県史15上)に収められた御教書などから大泉荘地頭職はのち憲明から憲方―憲定―憲実と上杉氏代々によって相伝されたことがわかる(応永2年7月24日足利義満御判御教書・応永3年7月23日管領斯波道将施行状・年未詳上杉長棟〈憲実〉知行分処々文書目録)。鎌倉初期以来の地頭大泉氏の所領は北条氏に奪われ,南北朝期に入っても回復を果たさないまま上杉氏の所領になるという悲運に見舞われた。しかし,大泉氏の勢力は当荘から失われることはなく,北条・上杉氏などの地頭代官となって現地支配を維持していたものと思われる。やがて室町中期の康正元年玉泉寺を再興した左京亮淳氏の頃には荘内の実権を回復するに至った。「大宝寺」(大泉)氏の名前は,宝徳2年と推定される卯月11日の僧有良書状(醍醐寺文書/県史15下)にも「大宝寺にても 大崎殿様にても 可被仰談候歟」と見え,奥州探題大崎氏とならび称される奥羽の雄となっていたことが知られる。そして寛正元年10月21日の御内書案(続群/県史15下)によれば,古河公方成氏の追討に際しては「大泉右京亮」にも出陣命令が届けられた。同じく寛正4年には「大宝寺出羽守」が上洛して足利将軍に馬を献上,大名なみの接待を受けている(蔭凉軒日録,寛正4年10月4日・7日条/県史15下)。荘内平野一帯を領国とする戦国期大名大宝寺武藤氏の基盤が形成されつつあったことを物語るものといえよう。京都の荘園領主に対する年貢が有名無実となり,荘園としての実体が失われるのもこの頃のことと思われる。現在の櫛引(くしびき)町大字下山添の山添八幡宮には南北朝末期の永徳2年に書写された大般若経数百巻が現存し,その奥書(県史15上)には「羽州大泉庄山制郷八幡宮常住」(巻426),「羽州大泉庄山副村八幡宮常住」(巻数不明)などと見える。同じく南北朝期の貞治6年10月9日の年紀を有する興慶寺仏像銘(県史15下)には「出羽国大泉庄□□郷興慶寺」とも見える。また室町期に語られた「義経記」(古典大系)には,田川を出た源義経主従が「大泉の庄大梵字を通らせ給う」と記されている。大梵寺は大宝寺で,現在の鶴岡市街の内川以西の地域をさし,武藤氏の拠る大宝寺城(のちの鶴ケ岡城)があった。戦国末期の文禄4年12月2日の坂蔵杢大夫旦那売券(米良文書/県史15上)には紀州熊野(現和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)御師の旦那職が売買されており,「出羽国庄内多(田)川郡・アクミ(飽海)郡一円,同大イスミ(泉)ノ庄者のそく(除)其外に一円」と見える。このことから当荘は庄内の田川・飽海両郡から区別された扱いを受けていたことが知られる。慶長年間には,金峯山青竜寺(現鶴岡市大字青竜寺)納札・金峯山釈迦堂棟札・愛宕神社(現鶴岡市大字安丹)棟札・羽黒本社棟札・羽黒山五重塔棟札・同九輪台座銘・荒沢寺御影堂棟札などに「出羽国大泉庄」と見える(県史15下)。この頃から大泉荘の姿は史料上から見えなくなる。なお現鶴岡市勝福寺泉山の泉明神は往昔,「大泉湧出ノ霊場」で,大泉荘の名はこれにもとづくという伝説がある(筆濃余理)。庄内地方,現在の鶴岡市・藤島町・三川町・羽黒町・櫛引町などが当荘域に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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