櫛引郡
【くしびきぐん】

旧国名:出羽
(中世~近世)戦国期から寛文4年の郡名。櫛挽郡とも書いた。天正17年と推定される6月2日付の来次氏秀書状写(阿部正己資料所収文書/県史15上)に「櫛引郡の中,五三ケ所最へ手を合候処」とあるのが初見。天正15年10月一時庄内を征服した最上氏が,翌年本庄繁長の反攻に敗れ,当郡内の諸楯へ籠城した最上方の地侍たちが繁長によって攻め滅ぼされたことが知られる。これより先元亀元年と推定される9月晦日付の小笠原氏隆書状に「雖然三郡中無別条,各可被致奉公にて候」と見え,ここに見える三郡とは櫛引郡・田川郡・飽海(あくみ)郡を指すものと思われ,すでに郡名として成立していたことが確認される。庄内地方の川南(最上川左岸一帯)は,鎌倉期~南北朝期にかけては,最上川に沿って海辺荘,その南に大泉荘があり,川南の南半分が田川郡の範囲となっていた。しかし室町期に至り,これらの荘園はその実体を失い,川南全域が田川郡と汎称されるようになったものと思われる。戦国期に入ると,庄内地方はほぼ武藤氏の領国と化し,それに伴って私的な呼称として櫛引郡の名称が発生したものと推定され,それが戦国末期には一般的となり,公的にも認められるようになったものと思われる。武藤氏は天正15年最上氏の攻撃により実質的に滅亡し,庄内は最上氏の支配下に置かれたが,翌天正16年越後の本庄繁長の軍勢に敗れ,上杉氏の領国に編入された。文禄4年と推定される直江兼続条書(志賀槇太郎氏所蔵文書/県史15上)に「櫛引郡検地,雪中故三ケ一程相残候由,連々可申付候事」とあり天正18年および文禄4年に行われた太閤検地により,その郡域が確定したものと思われる。慶長3年上杉景勝が会津(現福島県)へ移封する際の領知目録(三公外史/県史16)には「一,六万八千八百廿九石一斗一升四合ハ 櫛挽郡」とあり,櫛引郡の明確な郡域と総石高が確定している。その郡域は,川南の東半分,赤川流域以東のほぼ明治11年に成立した東田川郡の範囲にあたり,庄内地方,現在の立川町・藤島町・羽黒町・朝日村・三川町・櫛引町・余目(あまるめ)町のほぼ全域と鶴岡市・酒田市の最上川以南の一部をも含むものであったと思われる。当郡は慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領となった。寛永元年の総石高は9万6,596石余(庄内検地高辻)。寛永9年当郡のうち1万石余が丸岡藩領,慶安2年には2,700石余が松山藩領となった。寛文4年幕命により櫛引郡は廃止され当郡域は田川郡に包括された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7024842 |