岩槻藩
【いわつきはん】

旧国名:武蔵
(近世)江戸期の藩名。譜代・中藩。居城は埼玉郡岩槻(岩槻市)。小田原北条氏治下では太田氏(太田氏房)の居城で,天正18年5月,太田氏房は浅野長吉らに攻められ落城。徳川氏の関東入国ののち,高力清長が2万石で入城して成立。清長は岩槻市宿の復興(慶長6年)や粕壁(かすかべ)(春日部(かすかべ)市)新宿を取り立てたり(慶長7年)して,領内の商業活動を活発化させた。元和5年高力氏移封による番城時代を経て,同6年,青山忠俊4万5,000石で,次いで同9年,阿部正次5万6,000石で入封した。のち8万6,000石,寛永15年,嫡子重次5万9,000石,のち11万5,000石余。寛文4年の藩領および村数は埼玉郡61・足立(あだち)郡28・下野(しもつけ)国都賀(つが)郡(栃木県)65・寒川(さむかわ)郡28・上総(かずさ)国夷隅(いすみ)郡(千葉県)48・下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡15・近江国浅井(あざい)郡(滋賀県)3の計248か村。石高11万5,000石余(寛文印知集)。同8年の藩士数1,212人(家中人数帳)。天和元年,板倉重種6万石で,同2年,戸田忠昌5万1,000石,同3年,松平(藤井)忠周が4万8,000石で入封。元禄初年頃には本知4万8,000石・内高6万5,000石余,年貢は5~6割,抨し5割5分,家中物成は3割5分,「国家の仕置宜しく,家中民間窮せず」という(土芥寇讎記)。元禄10年,小笠原長重5万石,正徳元年,永井直敬3万2,000石を経て,宝暦6年に大岡忠光が2万石で入封(のち2万3,000石)し,廃藩置県に至る。大岡氏の藩領は埼玉郡62・飛地が足立・比企(ひき)・幡羅(はたら)・高麗(こま)・多摩(たま)(東京都)・葛飾6郡に13・上総国夷隅・山辺(やまべ)・長柄(ながら)3郡に55・山城国相楽(さがら)郡(京都府)1・下総国葛飾郡1・常陸国新治(にいはり)郡(茨城県)1・上野国那波(なば)・勢多(せた)2郡に7の計6か国140か村と知行地が散在していた。地方支配は岩槻会所と上総勝浦(千葉県勝浦町)地方役所に分けて統轄した。岩槻会所では村方を2筋に分け各々に割元名主を置き,勝浦役所は房総地方の支配に当たり,このほか山城・上野・常陸の飛地はその地の有力名主を地代官に任じて委任した。天明4年の藩士数は380人余(諸席取調帳),また領内産業の振興に努力し,オランダ渡りの木綿種を上総・安房・岩槻の領内に試植させた。これが岩槻木綿の初めで,天明~寛政期以降は農間余業として発展した。その他,砂糖種の蒔付けや城内の空地に栗や梅の植樹などを奨励した。しかし天明年間の浅間(あさま)山(長野県)の大噴火と飢饉,利根(とね)川の洪水等で城下および領内は甚大な被害を受け,農村は疲弊した。城下でも凶作による米価高騰により,天明7年と天保7年には打毀が起きている。寛政期には藩財政再建のため藩政改革を行い,倹約等を実施したが回復はできなかった。文化年間には藩校遷喬館がつくられ藩士の教育に当たった。幕末には天狗党の乱や武州世直し一揆の鎮定に出兵するなど財政は崩壊寸前であった。明治初年の草高は3万3,000石余,村数146か村・人口3万8,000人余・士卒379戸(藩制一覧)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7047883 |