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神通川
【じんづうがわ】


県の中央部を北流する。1級河川。50の支流を有する。県内5大河川の1つ。流量約46km。富山市で富山湾に流入。「越中志徴」に「宝暦十四年調書に,水上は飛州より流出,猪谷(いのたに)村より笹津(ささづ)村迄道程六里十町,笹津村より中嶋(なかじま)村迄道程相知らず,中嶋村より東岩瀬(いわせ)領草嶋(くさじま)村領にて海へ流出。中嶋村より海落合まで道程一里半」とある。上流は高原(たかはら)と宮川(みやがわ)に分かれる。高原川は岐阜県と長野県の境にある穂高(ほだか)岳に源を発し,笠岳(かさだけ)との間を流れ,平湯(ひらゆ)川・双六(すごろく)川を合わせ,岐阜県吉城(よしき)郡神岡(かみおか)町を北流。宮川は岐阜県大野(おおの)郡宮村の宮峠に発し,高山(たかやま)盆地・古川(ふるかわ)盆地を貫流し,川上(かわかみ)川・小鳥(おどり)川を合わせて北流する。両川は富山県内に入り,婦負(ねい)郡細入(ほそいり)村猪谷で合流して神通川となる。猪谷から下流の両岸は段丘地形で,また神通川第1・第2・第3のダムが建設されている。春の新緑,秋の紅葉もよく,この一帯が神通峡で楡原(にれはら)衝上段層・猪谷背斜向斜構造などの天然記念物があり,県定公園に指定されている。上新川(かみにいかわ)郡大沢野(おおさわ)町笹津付近から扇状地を形成。右岸に船峅野(ふなくらの)や大沢野の旧扇状地があり,新扇状地は流路に沿って狭く,左岸の婦負郡婦中(ふちゆう)町を中心に広がる。旧扇状地の末端部分では常願寺(じようがんじ)川の広大な扇状地の発達に押されて呉羽(くれは)丘陵よりの流路をとり,流域も狭く排水河川の性格を示す。下流部では西から和田(わだ)川,東から熊野(くまの)川が入り,富山市内で鼬(いたち)川・松川(まつかわ)が流入。かつて神通川は富山市街地の中を大きく曲流しており,洪水の危険を防ぐため,明治34~36年に行われた河道の付け替えで本流をまっすぐ富山湾に注ぐようにした。旧河川敷は富岩(ふがん)運河掘削の土砂で埋め立てた。神通川は渇水期でも下流で1日2,000t,県内で最も豊かな流量をもつ川だが,上流の鉱山の鉱毒流出のためあまり利用されない。特に神岡町にある三井金属から多年にわたって流された重金属は下流婦中町農村に「イタイイタイ病」と呼ばれる重症被害をもたらした。古くはアユ・マス・サケなどの漁業が営まれ,江戸期には幕府への恒例上納品であった。上流の岐阜県には神岡(かみおか)と「神」を訓で読む町があり,昔は神通川も訓読みで「かみと川」と呼んだという説もあるが確証はなし。古代においては神通川という共通した呼称はなく,それぞれの流域地方の名前をとって鵜坂(うさか)川・有磯(ありそ)川・岩瀬川などと呼ばれていた。古く越中守大伴家持は天平20年の春に管下諸郡を巡行し,現在の婦中町鵜坂にある式内鵜坂神社の近くで鵜坂川と呼ばれていた渡り瀬の多い神通川を対岸の新川郡に向かって歩き,「鵜坂河渡る瀬多み この吾が馬のあがきの水に衣ぬれにけり」(万葉集巻17)と詠んでおり,歌碑が鵜坂神社の後方の神通川の土手に建立されている。なお同じ家持の「売比河(めひがわ)の早き瀬音に篝さし 八十伴の男は鵜河立ちけり」(万葉集巻17)の歌の中の売比河も神通川と比定する説もあるが確証はない。神通川に関しての河川名は「万葉集」以外には見えず,中世に入ると戦国期から多出する。越後の守護代であった長尾為景感状によると,上杉謙信の父,長尾為景が永正17年12月に新川郡の新庄城において布陣したので,越中国の支配者神保慶宗は遊佐・椎名・土肥といった国侍と連合して神通川を越えて新庄城で対戦し,慶宗は敗死したとある(上杉家文書/大日古)。この時代に神通川を渡る場合,どこを渡ったかは明らかではないが,婦中町の長沢地区に為景が長沢の月留(つきどめ)という所で落とし穴に落ちて戦死したという伝承が残っており,現在の長沢地区へ通じるあたりを渡ったのではないかと思われる。これ以後神通川を越えるという記事は永禄12年10月上杉輝虎(のちの謙信)が越中を警戒した際や(上杉輝虎書状案/大日古)元亀2年謙信が越中十数か条を落とした際に(北条氏政書状/大日古)見え,いずれも婦中町鵜坂から長沢方面へ渡ったのではないかと思われる。神通川を渡る交通機関に関しての記録が見えるのは,戦国末期の天正9年で,現在の富山市荒町(旧名木町(きまち))付近に渡船の掟を掲げたという記事(越中古実記)が最初で,以後は現在の富山市内で渡船が設けられる。神通川の名物であった舟橋(ふなはし)は木舟をつなぎ合わせて橋としたもので,慶長元年以来多くの史料・絵図等に見られ,当時の常設舟橋では景観日本一といわれたという。現在は神通川の流れも変わり,現存してはいないが,舟橋を由来とする町名が今も舟橋南町・北町として残っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7082068