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戌山城
【いぬやまじょう】


大野市犬山に所在する室町期~戦国期の山城。近世大野城の西方800mの犬山(標高約300m)にあり,福井から大野を経て美濃に通じる街道を見下ろす位置にある。戌山城は2つの郭群からなり,北西の郭群が高所にあって本丸に比定される。一辺約30mの郭が2段あり,この周囲に畝状竪堀や堀切が存在する。この郭から下る尾根にもいくつかの堀切や郭が認められる。東南の郭群は階段状の郭が8段存在し,西方の郭群に続く尾根上には堀切が4か所ある。城主については,足利尾張守三男斯波伊与守義種が亥山城に入り満種・持種・義鏡と以下3代にわたって大野郡を支配した。持種は寛正5年当時大野郡司だったらしい(蔭涼軒日録)。持種の子義敏は本家を継承,越前守護となったが,家臣の推す義廉との間に家督争いを起こし,斯波氏の勢力は急速に衰えていった。この間家臣の二宮氏が大野で勢力を拡大し,戌山城に拠ったのであろう。応仁・文明の乱を通して坂井郡・足羽郡を手中にした朝倉孝景は,文明7年7月戌山城を攻めてこれを落とし(宗滴夜話),同年末には二宮党を国外に追放した。この後孝景の弟慈視院光玖が郡司として大野郡を支配した。朝倉経景が戌山城主となるのは,光玖没後(明応3年)であろう。「城蹟考」では朝倉景職・尹景が続いて城主になっている。朝倉氏滅亡後は,天正3年大野郡の3分の2を領した金森長近が入城したが,翌4年約800m東南にある亀山に城(大野城)を築いて移り,戌山城は廃城となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7091024