大野城
【おおのじょう】

大野市城町に所在。織豊期~江戸期の城郭名。大野盆地の西寄りにある独立丘陵亀山に立地する平山城である。よって亀山城ともいう。天正3年一向一揆を平定した織田信長は,金森長近に大野郡の3分の2を与えた。長近は最初戌山城に入ったが,翌4年に美濃街道を扼する亀山に築城を開始。しかし,天正13年に飛騨国高山に転封となり,その後青木一矩,織田秀雄が短期間在城した。関ケ原の戦後越前に入国した結城秀康は,家臣土屋正明に3万800石を与えて大野城に在城させたが,正明は慶長12年主君秀康に殉死したため,同14年小栗正高に預けられた。福井藩2代目藩主忠直配流に伴い,寛永2年秀康の三男直政を藩主として大野5万石が成立した。その後直明の時播磨国明石に転封,天和2年代って土井利房が4万石でもって入封,以後土井氏が明治維新まで続いた。城の縄張は,江戸中期の絵図によれば亀山の頂上に天守を築いて本丸とし,東麓の三方に濠を巡らして二の丸・三の丸を配した。外濠は大部分が土居で幅は20mある。三の丸南東隅付近に石垣を築いて大手門を設ける。城の西側の防備は北流する赤根川と深田を自然の堀とする。内濠で囲まれた二の丸は南北両隅に櫓を設け,その中央に表門を開く。二の丸に御殿と政庁があり,三の丸には上級家臣の屋敷があった。外堀の東に一般家臣の屋敷を配し,東側の町屋とは幅6mの水路で画する。町屋は街区を短冊形に区画し,南から横町・六間通・七間通・八間通・石灯籠町・正善町,西から一番通~五番通とした。五番通の東に寺院を集めて寺町とした。縄張の骨格および町割の基本は金森長近によるものであろう。安永4年の大火により城郭のすべてを焼失,以後天守閣は再建されることなく明治維新を迎えた。後に大野町に払い下げられ,亀山全体が県史跡となり,史跡公園として整備され,昭和43年には鉄筋コンクリートで天守閣が再建された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7091441 |