100辞書・辞典一括検索

JLogos

26

川中島①
【かわなかじま】


河中島とも書いた。善光寺平のうち。千曲川と犀川とに挟まれた犀川扇状地一帯をさす広域称。古代以来の交通の要地で,東は小県(ちいさがた)郡から上野国,南は信濃国府,北は越後国府に通じる。養和元年の横田河原の合戦,応永7年の大塔合戦,戦国期には数度にわたる武田・上杉両軍の川中島の戦の主戦場となった。地名の初見は,応永7年11月15日の市河興仙軍忠状で「今年応永〈七〉九月十日,小笠原信濃守長秀,自善光寺有御打立,被召河中島横田御陣」とあり,長秀が善光寺から当地内の横田に陣を進め,横田の南にあたる四宮で村上満信・大文字一揆らと戦った(市河文書/信史7)。文正元年10月書写の「大塔物語」には「河中島所々者,大略村上当知行也,且称非分押領,且寄事於守護之諸役,令入部致所務,是則小笠原滅亡之始也」とあり,室町期当地は村上氏の所領であり,守護小笠原氏が当地に支配を及ぼそうとしたことから,大塔合戦が起こったと考えられる(信叢2)。天文20年7月21日の秀弘置目案に「信州河中島布施」(三宝院文書/信史11),天文24年7月19日の武田晴信感状に「信州更科郡川中島」と見える(大須賀文書/同前12)。戦国期においても当地は村上氏の所領であったが,天文年間に入ると武田氏が勢力をのばし,村上氏は越後の長尾景虎を頼ったため,武田・長尾(上杉)両軍は天文22年・弘治元年・同3年・永禄4年・同7年に当地で対陣した。このうち永禄4年9月10日の川中島の戦が最も激しい戦いであった。これらの戦いの中で,当地は武田氏の支配下となった。一方川中島は広義の地域呼称としても使用された。応永11年12月日の市河氏貞軍忠状に「大将細河兵庫助殿奥郡御発向時」と見え(市河文書/同前7),武田氏も天文22年8月9日の晴信条目案に「奥郡本意之上」と見える(大日方文書/同前11)。奥郡は当地以北の信濃国北部を指すとみられる。天正9年の「信濃国道者之御祓くばり日記」に「川中しまの分」として記された地名は,更級(さらしな)郡・埴科(はにしな)郡・水内(みのち)郡に及んでいる(信史15)。また天正5年10月10日の下間頼竜書状案には,「信州川中島之分」として現在の須坂市の高井郡に属する寺院が含まれている(勝善寺文書/同前14)。戦国後期には,奥郡の地域すなわち川中島が水内・高井・埴科・更級の4郡を含む広義の意味でも使用されるようになっている。天正10年3月武田氏が滅亡すると,この4郡は織田領となり森長可に宛行われたが,同年6月の本能寺の変ののち上杉景勝の支配下となった。天正年間以降この4郡は川中島四郡とも呼称されている。慶長7年埴科郡松城々主森忠政の領地内の郡別郷村高辻帳は「川中島四郡検地打立之帳」,元和4年3月松城々主になった酒井忠勝に渡された領地目録は「信州川中島御知行目録」,寛文4年の松城領真田家十万石の領地目録は「信濃国川中島松城領高辻帳」という(信叢11)。なお,当地域では,河北・河東・河南の呼称も見え,これは千曲川・犀川を基準とする4郡内の地域呼称とみられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7100253