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足近輪中
【あぢかわじゅう】


羽島市の西北部にある輪中。江戸期には北は境川,西は長良(ながら)川,南と東は逆川に,それぞれ囲繞されていた。宝暦治水工事の絵図には坂井輪中とある。面積538町歩。境川に面した堤防は輪中の高位部にあり,かつ天正14年まで木曽川が境川を流れていたから早くから築造されたはずである。鎌倉期の鎌倉街道もほぼこの堤防に沿っていたと考えられ,近世の美濃路もこの堤防を利用していた。また,天正14年以前から木曽川は柳津村でこの輪中の東を通る足近川を分派していたという(岐阜県治水史上巻)。また逆川は天正14年に形成されたものであるから(岐阜県治水史上巻),足近輪中がその後に形成された正確な年代は分からない。しかし,享保年間には「濃州治水記」に記載してあるのでこの頃には完成していたとみられる。所属の村々は東小熊・西小熊・天王森・南之川・南宿・北宿・川口・直道(すぐみち)・嶋・小荒井・市場・坂井の諸村であった。この輪中の中央部の江頭(えがしら)は最も低い所にあるが,これは新田開発後の出村であって,他の集落のすべては輪中堤に沿って自然堤防などを利用して立地している。長良川沿いには,西小熊の一部,外粟野(そとあわの)の大部分,天王(てんのう)の全部などが江戸期から昭和初年まで長良川沿岸で堤外地に立地していた。それはこれらの集落が渡船・漁業・河川運輸など何らかの意味において堤外地の川沿いに立地することが必要であったからとみられる。しかし,昭和初年の改修工事によりこれらの村々も新堤に囲い込まれた。現在江戸期からの足近輪中の堤防は著しく低められてもとの形をとどめていない所もあるが,境川沿いの部分はかなりの高さまで残されている。昭和32年に東隣の正木輪中の水害予防組合と合同して,羽島中部水害予防組合を結成したが,同37年に解散し,水防事業は市の水防団の手にゆだねられた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7104287