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大垣輪中
【おおがきわじゅう】


大垣市街部を中核として輪中のすべてが大垣市に属する大きな複合輪中(面積約4,255ha)。東に揖斐(いび)川,西に杭瀬(くいぜ)川,東北部は揖斐川の支流平野井川に囲繞されている。大垣輪中の北部の堤防の構築は古く,正治元年に笠縫(かさぬい)堤(大垣駅の北西方)が杭瀬川(以前の揖斐川)の氾濫で破壊し,その修理をめぐって国衙側と大井荘との間に争いが起きている。しかし,これが輪中として完成するのは水門川に門樋ができ,懸廻堤が完成した寛永13年とみるべきである。大垣輪中は地形的にみると,扇状地の末端部から自然堤防・後背湿地地域にかけて広く展開し,高位部の扇状地末端部は早くから開かれているが,その付近からは多量の湧水をみている。この湧水が水源となって水門川の水系が成立し,これがこの輪中の低位部(南部)では悪水となる。大垣輪中には内郭輪中として古宮・中之江・伝馬町・禾森(のぎのもり)・浅草・今村の諸輪中を南部の低位部に内包しているが,これらは高位部からの悪水を排除しつつ,開拓の進行につれて形成されていったものである。大垣輪中の古来の集落の分布をみると,その北半部では堤防に沿った分布もみられるが,そのほかは輪中内で平均的に塊村で分布する。一方,低位部にある内郭輪中群の集落をみると,かなり堤防に沿ったものが多い。江戸期の大半,大垣輪中の諸村はわずか2村の例外を除き大垣城主戸田氏の所領であったから,輪中の形成や治水について統一的に行動することができた。江戸期の後半になると大垣輪中も外来河川の河床上昇のため悪水排除が困難になり,ことに低位部の生産力低下は著しかった。このために,一方では低湿部水田が堀田化したが,他方では悪水を外来河川の河床下を潜って(伏越)より下流部で本川と合するように図った。天明5年に完成した鵜森(うのもり)伏越樋管は鵜森で揖斐川の河底を伏越し,2.5km下流の根古地(ねこじ)村で揖斐川へ放流する難工事であった。江戸期の大垣輪中堤のうち,揖斐川沿いの堤防は明治以降増強され,また位置も変わった所がある。杭瀬川沿いの堤防はそれが若干低められたりしているが,ほぼ江戸期からの姿を今も残している。これは現在もなお,杭瀬川沿いでは洪水を守る必要があるためである。水門川の下流部には現在強力な排水機が設置されており,第2次大戦後の土地改良で堀田はすべてなくなった。大垣輪中は古来水害に悩まされてきたので,江戸期の大垣市街は全体として高い地盛の上に成立しており,近来の豪雨時にも古い市街部は容易に浸水しないが,明治以降成立の市街地はその配慮が少なく,よく床上浸水となる。大垣輪中が最後に洪水で全面的に一時,泥海となったのは明治29年で,この時,天守閣の石垣まで水がきたことが今も石垣に表示されている。大垣輪中が管理した諸色庫(郷蔵)は同31年当時30棟あった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7104879