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高須輪中
【たかすわじゅう】


海津郡高須・平田両町のほぼ全域にまたがる輪中。東を長良(ながら)川,西を揖斐(いび)川,北西を旧大榑(おおぐれ)川に囲まれた大きな複合輪中。百八輪中・百輪中・百輪ともいうが,それは輪中内の村数が108村あったからだという(伊藤信論文:経済史研究17の1,1937)。もっとも高須輪中の語は本阿弥輪中などが成立する以前の古い輪中にも使用されるから区別して用いねばならない。古い方を古高須輪中(第1次・第2次)と呼ぶ。高須輪中の形成を語るにはこの輪中をめぐる川の吟味が先決である。天正14年までこの輪中内を木曽川(含長良川)が流れていたことは地形図からも確認できる。そしてそのルートとして海津町境方~平田町西島間,海津町鹿野(かの)~同町平原間を流下したことは地形的にも確かであるが,その後,流下方向を300°ほども急変換して今の大江川を通って南下していたとする従来の説には賛成できない。地形図上で,集落・田畑の分布,大きな川の曲り方から判断すると,古木曽川は高須市街部の北・西をめぐって西小島~東小島間に出たと解すべきである。大江川ルートには,そこを流れていた川があったと判断はされるが,それは別の時点(おそらくはより古い)の川が流れていたとみるのが妥当である。大榑川は元和5年に新川として開削したものであるとする「百輪中旧記」の説を「岐阜県治水史」や伊藤論文はとっている。しかし地形図からは大榑川は自然河川とみるべきであり,またこれだけの規模の川を当時開削することは容易ではなく,もしそれを行ったとすればより多くの記述が「百輪中旧記」以外にあるはずで,元和5年に河川工事があったとしてもたかだか自然河川の拡幅程度であろう。伊藤論文によれば,この輪中内の地名の文書上の初見は古木曽川の西では高須―1245年・勝村―1251年・成田―1260年,またその東では秋江―1303年・堺方(境方)―1333年であり,古木曽川の西側の方が開発が古いようであるが,いずれにせよ,高須輪中の高位部の開発は13~14世紀とみられ,その当時は堤防があったとしても尻無し堤であったと考えられる。しかし,懸廻堤はなくても,単純な堤防があったとはみなければならない。それは,古木曽川の流路に沿って,海津町平原などにいくつも落堀があったことが字絵図で認められるからである。そのような尻無し堤の輪中が古木曽川の西と東にあったとみられ,東側のものを伊藤論文は秋江輪中と命名し,西側のものを(第1次)高須輪中としているが,西側のものが終始1つであったかどうかも吟味を要しよう。上述のように古木曽川の流路を想定すれば,第1次高須輪中の形態は伊藤論文の想定と大きく異なる。西側の高須輪中の潮除堤が元応元年にでき,懸廻堤が完成したという「百輪中旧記」(同書の奥書に天保11年に写すとある)の説がこれまで紹介・引用されてきたが,この説は疑問である。伊藤論文にある,大江川通東側の堤防が新たに慶長11年,西側のそれが慶安のはじめに築かれたという注記が逆にこの疑問を正当化するように思われる。伊藤論文に示してある海津町西小島~森下間の中堤(すなわち「百輪中旧記」にいうところの潮除堤)の増築年次は慶長11年,または同論文に杁樋の入札記録のある寛永8年は,高須輪中の懸廻堤の完成時期に重要な示唆を与える。高須輪中の内郭輪中である本阿弥輪中の高位部の村落の開発が慶長の頃といい,同様に金廻輪中の村々が天正4年よりの開発,福江輪中が慶長の頃の開発であることを考えると,天正14年の大洪水で木曽川の流路が大きく変わり,現在と似た流路をとるようになってから間もなく古高須輪中(伊藤論文の考えでは第2次高須輪中)が成立し,その後整備していったとみるべきではあるまいか。さらに付言すれば,古高須輪中の南側の西部の堤防,すなわち,稲山・萱野付近の堤防は既述の古木曽川の左岸の自然堤防を利用して築造したものと解釈することができ,また古高須輪中の南側の東部,すなわち,札野~森下間の堤防は上述の古木曽川よりさらに古い河川の自然堤防を利用して築造した堤防と推定できる。ちなみに,慶長5年~寛永5年の間は高須城に5万3,000石余を領した徳永氏がいたことを注記しておく。なお,この高須輪中の北側の高位部に,大榑川を隔ててある旧福束(ふくづか)輪中は寛永2年頃の完成であることを参照すると,それを何年かさかのぼる時点で古高須輪中の完成を想定することは妥当である。古高須輪中(第2次)の成立後,その低位部に本阿弥新田(それの成立も数次の発展過程がある)・福江輪中が成立し,それ以前に形成されていた金廻輪中との3者を合わせて,大きな(新)現高須輪中が成立した。その最終的な成立年次はこの現高須輪中内で最終の開発であった万寿新田の開発完成年次(享保17年)とみてよい。高須輪中は岐阜県では最も低湿部にあたる輪中であるが,その輪中内でもそれは古高須輪中以外の部分が著しく,したがって輪中形成に伴う河底の土砂堆積などで排水困難化のためにできた堀田の密度もこの地域に高かった。また輪中内の高位部に出る井戸水は低位部の悪水となるので,井戸数を制限する株井戸制が排水機設置の明治後半まで続いた。高須輪中はたえず水害に苦しんできたが,最後の破堤による輪中内への浸水は昭和27年6月24日輪頂部の勝賀にある堤防の下をくぐる用水樋管の周囲からの漏水によるものであった。明治以降,高須輪中の水防組織体は高須輪中水防組,高須輪中木曽・揖斐・長良大榑川堤防組合水利土功会,高須輪中水害予防組合と名称を変更してきているが,明治31年当時,民有地反別は3万4,792反余,組合員数4,682人,組合会議員は今尾町10人・高須町6人,海西・吉里・東江・西江各村各5人,大江村4人,計40人であり,水防諸色庫計27棟があった。また,経費は反別割47.5%・地価割47.5%・家屋割5.0%であった。なお,昭和28年以降の土地改良で河川を浚渫した土砂で多数の堀潰れを埋め,輪中内の景観は一変した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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