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多芸輪中
【たぎわじゅう】


養老郡養老町南部の平坦部にある大きな複合輪中(外郭輪中)。津屋川・金草川・牧田(まきだ)川・揖斐(いび)川に囲まれ,これらの諸川に沿って堤防がある。しかし,西の津屋川の最上流部では堤防は飯ノ木までで終わり,飯ノ木と押越との間には明らかな堤防は見られない。これはこの部分が多芸輪中の最高位部であり,牧田川の扇状地であるから大きな堤防を必要としないのである。しかし,この部分でもそれより高位部からくる悪水を排除するために「除(よげ)」はあった。特に,養老山地の東麓に展開する急傾斜の扇状地から流出する悪水を排除する必要があり,すでに明暦年間尾張・高須両藩主立会工事として勢至谷請堤防(勢至谷は勢至集落西方の谷)ができている。したがって,明治になってこの輪中の予防河川としては津屋・揖斐・牧田・金草の4川のほか,勢至谷請をあげている。また,多芸輪中の区域として,この部分ではどこまで含まれたかが大堤防を欠くので不明瞭であるが,押越(除に含まれる部分)・石畑(同上)までが多芸輪中に含まれる。もっとも押越・石畑両集落が多芸輪中に含まれるか否かは歴史的にも変化し,含まれない時代もあった。多芸輪中の名は延享元年の大榑(おおぐれ)川洗堰文書に初見する(養老町史通史編上)。寛政8年,水害頻度数について,多芸輪中は元文3年より50余年の間に30余回入水したと述べている(養老町史史料編下)。多芸輪中には下笠輪中・岩道輪中・飯ノ木輪中・有尾輪中・大場新田輪中・根古地輪中・釜之段輪中・高柳輪中などの内郭輪中が含まれる。昭和34年8月西濃地方を襲った集中豪雨のため根古地(ねこじ)地内の牧田川右岸堤が決壊し,濁流が輪中内へ浸入し,養老町東南部の2,600haが泥水に沈み,池辺・笠郷・広幡・上多度・高田(いずれも旧町村名)に及ぶ2,200世帯・1万2,000人がその被害を受けた。続いて同年9月にも伊勢湾台風による破堤浸水を受けた。一般に「輪中」というものを完全な懸廻堤を持つもの(堤防構築不要部分については論外)と規定したとき,この多芸輪中がいつ成立したかは明らかではない。しかし,昭和期の多芸輪中の範囲を前提にしてこれを考えると,それは比較的新しいことと考えられる。すなわち,別にのべる多芸輪中のなかの個々の内郭輪中の方が早く懸廻堤をもって順次成立してゆき,多芸輪中はそれらが後に順次統合・拡大していったもので,その統合の過程では外郭輪中としての多芸輪中には牧田川沿い,揖斐川沿い,津屋川沿いに堤防はあったにせよ,下流部は堤防や樋門のない尻無しのままであった時代がかなり長く続いたと考えられる。より詳細に吟味すれば,多芸輪中の最南端部の小坪は承応2年に開発され(次に述べる他の新田より一足先に開発されていることは大垣輪中の横曽根,福束(ふくづか)輪中の三郷,高須輪中の金廻などと同様で,しかもその多くの場合,これらの新田は行政上,その上流部の村とは所属を異にしていることも共通しており,最南端の新田がその隣の上流部より微高地であったことを示す),その北隣の高柳新田や西隣の駒野新田は17年遅れて寛文10年開発されており,この1670年以後,余り遠くない時に多芸輪中が形成されたとみられる。そして宝暦4年の薩摩藩御手伝普請目論見絵図では懸廻堤を持つ多芸輪中が明示されている。多芸輪中は明治になると多芸輪中揖斐川牧田川津屋川金草川堤防組合水利土功会となり,次いで多芸輪中水害予防組合となるが,明治31年当時,多芸輪中水防用財産として,諸色蔵24棟のほか,篝皿・油樽・提灯などを持っていた。総代人として,高田町押越と広幡村から5人,上多度村鷲巣・大跡新田・小倉・三郷から4人,下多度村津屋・志津・志津新田から1人,城山村徳田新田と池辺村から7人,笠郷村から9人を選出していた。また輪中経費は45%地価割・45%反別割・10%戸数割でまかなった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7107004