松枝輪中
【まつえだわじゅう】

田代(でんだい)輪中ともいう。羽島郡笠松町と柳津(やないづ)町にまたがる輪中。江戸期の旧村でいうと,最初は柳津・田代・北及・長池・南船原・北船原・町屋・北宿の8か村で形成されたが,天保3年に,逆(ぎやく)川の逆水除け締切堤ができてから,曲利・須賀・不破一色・市場の4か村が加わったが,この4か村は旧来の堤外地の部分のみがこの輪中に入ったのである。木曽川と境川にはさまれ,西に足近(あぢか)輪中,南に正木輪中,北に境川をはさんで加納輪中が相対している。輪中地帯の最上流部に位置し,元来畑地などで高かったので輪中形成は遅い。それだけに輪中堤を築くには周辺の了解をうることが容易でなかったし,また一般の輪中とは多少変わった形態をもっている。この輪中の形成は宝暦治水工事における大榑(おおぐれ)川の洗堰築堤がきっかけとなる。それまで長良(ながら)川の水は大榑川へよく流れて,この輪中は上流部からの溢水を防ぐ尻無堤のみであった。田代の北方にある須賀多堤がこれである。しかし洗堰によって長良川の常水位が高まり,洪水時に支流境川の上流部笠松近くまで逆流し,従来の柳津・舟原・北宿3か村の無堤地から浸水するようになった。明和4年逆水水除堤築立願を出し,天明3年と文化2年に水除堤の無願工事を行ったが,対岸の加納輪中から反対され見分取り払いとなる。文化8年に酒井七右衛門が川並奉行兼北方代官に任ぜられ,彼の努力により輪中は認められた。この時に築いたのが畑繋(はたつなぎ)堤と呼ばれるものであって,当初は相対的に高い畑と畑との間の水田に土を盛って畑を堤防につなぎ合わせたものであった。地元民はこの時,地元に好意的な配慮をしてくれた酒井代官に感謝し,同代官などを祀る畑繋大神宮を建立している。畑繋堤によって境川からの濁水の浸入は防ぎうるようになった。かくて松枝輪中は自らの堤防として木曽川ならびに境川に面しては存在するが,その南は正木輪中自身の,またその西は足近輪中自身の,それぞれ堤防があるのみで松枝輪中の堤防はない。すなわち全面的な懸廻堤を自らでもたない輪中である。懸廻堤があるとすればそれは他輪中の堤防に依存した懸廻堤である。この点,松枝輪中の輪中堤は異例である。すなわち,古くからあった須賀多堤に続いて畑繋堤を形成した段階では他輪中の堤防に依存する奇妙な形の輪中ができたが,なおかつ排水する逆川に面しては尻無堤であって,天保3年に逆川に逆水除け締切堤ができてはじめて懸廻堤となったといえる。旧木曽川が流れていた境川は木曽川が流れなくなってから流量を減じたので,この河川敷地の一部を新田とし,それを松枝輪中堤の外側に新しく堤防を築いて囲い込んだ。東野田輪中・西野田輪中がそれである。これらはいわば松枝輪中に付属する輪中である。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7108697 |