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矢作川
【やはぎがわ】


長野県浪合村と平谷村の境にある大川入山に発し,上・中流部ではほぼ南西に流れ,勘八峡で山地を出て挙母(ころも)盆地を貫流し,巴川を合流,三河山地と碧海(へきかい)台地の間の狭長な沖積平野を緩やかに蛇行し,安城市木戸付近で矢作古川を左岸に分流したのち,台地を東から西に切って三河湾に注ぐ。1級河川。流長117km・流域面積1,830km(^2)。矢作古川の分流点より下流は,水害を防ぐ目的で慶長10年に開削された人工の水路で,かつては南流する矢作古川が本流であった。河口から10.6kmの地点にある米津(よねづ)流量観測所における年総流出量は15億7,862万m(^3)(昭和13~59年の平均)であるが,上流の各用水の取水量と矢作古川への分水量を考慮すると,年総流出量は19億m(^3)程度と見込まれる。古くから農業用水として利用され,枝下(しだれ)用水・明治用水などの大規模な用水が明治期に開削された。矢作川は,寛永21年版「下学集」に「愚按,本朝参河風土記,有作矢河也」とあり(風土記/古典大系),これが「三河国風土記」逸文と考えられるとすると初見史料となる。「類聚三代格」承和2年6月29日の渡船の増加を命じた太政官符によって造橋不可の大河であることが(国史大系),また「催馬楽」貫川によって「矢矧の市」がたっていたことがわかる。近年,矢作川の河床より数基の井戸が確認され,縄文時代から中世にいたる遺物を出土する複合遺跡として矢作川中流域を考えねばならないことが明瞭になった。とりわけ矢作橋右岸下流の渡A地区の立会い調査で発見された,31点の墨書土器や鳥形木製品・墨付木片を含む奈良期末から平安期初頭に一括される出土遺物は,県下でも有数の遺物として評価できるものである。このうち「郡府」と記された墨書土器は古代の碧海ないし額田郡衙の所在をうかがわせる貴重な資料である(岡崎市史研究5)。慶長年間の改修工事によって寛文年間頃から発達した舟運は,上流で中馬や三州馬と結びつく形で隆盛をみた。矢作川を上る荷は,鉄・繰綿・樽・鋳物・土管・酢や農産物・水産物など多種で,多くは城下町岡崎で陸揚げされた。また上流では材木の筏流し・管流しが行われた。これら川を上下する荷を管理・統制して分一税をとるため,寛文年間東広瀬村(豊田市)に分一番所が設置され,享保3年に細川村(岡崎市)に移された。近年,矢作川下流域の西三河地域における各種用水の需要増加に伴い,昭和46年に完成した矢作ダムを水源とした矢作川総合農業水利事業・西三河水道用水供給事業・西三河工業用水道事業が実施された。矢作川の水質の特徴は懸濁物が多いことで,これは上流域の山地が崩壊しやすい風化花崗岩地帯であることに加え,山砂利採取・珪砂工場廃水による汚濁が原因となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7124300