長島輪中
【ながしまわじゅう】

県北東端,木曽川と長良(ながら)川の間に位置する。狭義には明治中期の木曽・長良・揖斐(いび)3川分流改修工事前の長島曲輪(輪中の異称)を指すが,広義には3川分流工事によって大輪中を形成することになった長島・葭ケ須(よしがす)・横満蔵(よこまくら)の3曲輪(分流工事によって一部水没した部分もある)の地域を含む。広義の長島輪中の範囲は桑名郡長島町の全町域に当たり,伊勢湾台風後さらに補強された巨大な堤防が木曽・長良両川の三角州上の集落と耕地を囲繞する。従来の中小輪中の人工堤防や旧河道の多くは姿を消し,木曽・長良川沿いの堤防が巨大化したことと,わずかに残る旧河道と木曽・長良の河道との間にも水門が完備したことで,現在は広義の範囲の方が輪中景観としてとらえやすい。全域とも水田率が高かったが,排水設備の施工と名古屋近郊圏に位置することから施設園芸農業が拡大し,また住宅地化と長島温泉を母体に観光基地化が顕著。狭義の長島輪中は町域のほぼ北半部を占めるが,その成立は鎌倉初期と推定され,県下の輪中地域の中では最古の部類に属する。かつて長島七曲輪と呼ばれたように7個の小輪中から成り立っていたが,次第に接続した。7輪中のうち南西部の西外面(にしども)には長島城が築かれ,増山2万石の城下町として幕末に至るが,この一帯は長島一向一揆の拠点となり数万人の死者を出した戦場としても知られている。南接する葭ケ須輪中との間の鱣江川と旧長島城の堀は,7輪中時代の木曽・長良・揖斐3川網状流の残存部である。狭義の長島輪中は明治中期の3川分流工事の際,西側堤防を長島・揖斐両川の背割堤とし,輪中内に長良川水路を掘削したため152.4ha,さらに流路を直線状にするため85.9haが潰地,東側では対岸の桑名郡木曽岬(きそざき)町との間の加路戸川を木曽川本流として拡幅・直線状にした際,葭ケ須・横満蔵輪中と併せて134.9haが潰地となる。葭ケ須輪中は鎌ケ池・葭ケ須以南,名四国道南の熱帯植物園一帯までの地域で,北部に17世紀中期以前のものもみられるが大半は17~19世紀に干拓された。横満蔵輪中は現在の長島町域の南部に位置し,ほぼ18~19世紀に干拓された。南端の松蔭地内の長島温泉の湧出により,近年は観光・交通産業の発展が著しい。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7128203 |