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教王護国寺
【きょうおうごこくじ】


京都市南区九条町にある寺。単立(真言系)。正式には金光明四天王教王護国寺秘密伝法院,あるいは弥勒八幡山総持普賢院と号するが,一般には古くより東寺の名で呼ばれることが多かった。本尊は薬師三尊。延暦13年の平安遷都に伴い,王城鎮護のために羅城門の左右に2寺が建立され,それぞれ東寺・西寺と号した。「東宝記」(続々群類12)には延暦15年に,大納言藤原伊勢人を造寺長官に任命して両寺を造営せしめたとある。また東・西両寺を「東寺号左大寺,西寺号右大寺」とあり,この左大寺すなわち東寺の地は「元在山城国分寺」があってその跡を東寺としたとする。「類聚国史」仏道条に,延暦19年4月に勅して伊賀国の山林を王臣豪民が占有することが見え,ただし「東西二寺。称構堂宇。其巨樹直木特聴禁断」として東・西両寺造営用の木材供出を認めている。「日本後紀」延暦23年4月8日条に多治比真人家継を造東寺次官に,日下部得足を造西寺次官に任命しているのが見える。この頃ようやく造寺が本格化したとも思えるが,「帝王編年紀」「扶桑略記」にも伊勢人を延暦15年に造寺長官に任命したと見えるから,平安遷都後まもなくの延暦15年あたりには造寺事業が開始されたのであろう。「日本後紀」弘仁3年10月28日条には東大寺に施入する予定の「官家功徳封物」を「造東西二寺諸司」に与え,両寺の造営をうながし,さらに同年11月27日条では布勢内親王墾田772町を両寺に施入している。弘仁14年10月10日付太政官符(類聚三代格)では,東寺に「真言宗僧五十人」を住せしめ他宗僧の混雑を禁止した。これは空海が朝廷にとりいって東寺を賜わり,真言密教の道場としたことによる。承和元年12月24日の太政官符(同前)において,空海は東寺の三綱を真言僧50人の内から選び任命するよう要請,これを許されている。「続日本後紀」承和2月正月6日条には50人の僧に「三密門」を修せしめるとともに「官家功徳料封千戸之内二百戸」をもって僧供に充当し,鎮護国家を祈念せしめている。同条には「今堂舎已建」とあって,これ以前には金堂・南大門などの主な建物は整っていたが,空海は講堂・五重塔などの造立に着手(東宝記)。以後空海の努力によって漸時寺観が整えられていった。中でも五重塔は空海が天長3年から着工したものとされるが,仁和2年3月13日(日本紀略),天喜3年8月11日(百錬抄)に落雷のために焼失。のち応徳3年10月20日に再興している(応徳三年東寺塔供養記/群類24)。平安期は,東寺は西寺とともに「天下疾疫」をはらうための読経を南都七大寺,延暦寺とともに修するなど,官寺としての地位を確かなものとしている(日本紀略,康保3年7月7日条)。また円融院は永祚元年3月9日に東寺で灌頂し(百錬抄),天皇家の国忌なども当寺にあてられるなど,ほかの寺院とは異なった待遇を受けていた。ちなみに「延喜式」治部省条によれば,光仁天皇・仁明天皇・沢子贈皇太后・胤子贈皇太后の国忌が行われている。この頃には本尊をはじめとして,諸堂に中台5仏,左方5菩薩,右方5忿怒などの諸仏が整備されている。これらの仏像群は,仁王護国を体現した本尊とともに空海が自刻して納めたものとされ,これ以降,唐の清竜寺の改号の経緯にならって教王護国寺と称するようになった(東宝記)。東寺御影供は,空海没後にその御影を中心として空海信仰を弘めるために行う法会で,灌頂とともに当寺のもっとも主要な行事の1つであった。しかし仁平2年3月に東寺は末寺であった金剛峯寺以下7寺と垂水荘以下3荘からの御影供巣子進納がたびたび遅延するので催促しており(平遺2756),この頃東寺内部および末寺・寺領の統制にゆるみが出はじめていたらしい。平安期も後半に至ると,寺領の退転・押領および年貢未進が目立つようになり,12世紀頃には荒廃する。これを再興したのが勧進僧文覚と,その事業を理解し支援した後白河院・源頼朝であった。文治2年4月頼朝は諸寺社の再興を後白河院に申請,特に東寺再興の志のあることを伝えている(吾妻鏡)。また後白河院も文治3年3月6日に保元以来の戦乱で死亡した人々の追福供養を東寺に命じている(後白河法皇院宣/鎌遺217)。文覚は高雄山神護寺の再興を志してこれを実現したのち,さらに後白河院に進言して東寺の再興に着手。文治5年12月9日後白河院は長門国に次いで播磨国を東寺修造料国に充てており(玉葉),建久2年12月には灌頂院の修造が終功している(東宝記)。頼朝は建久2年12月11日に「東寺修理上人(文覚)為勧進所被下向也」(鎌遺567)として文覚の勧進活動を援助しているが,東寺再興事業は灌頂院完成以降も推し進められた。建久3年8月27日の守覚法親王御教書(鎌遺613)によれば,後白河院没直後のこの頃,頼朝はより積極的に再興に取り組み,守覚法親王は頼朝の努力に対して「只堂塔を造立の功徳たにこそ莫大なるに,此ハ一宗可繁昌事にて候ヘハ,当宗の仏法の候はんかきりハ,此善根は可増長事也」と賞讃,感激している。文覚に対しても「可勤内々行事也」と修造のよりいっそうの進行を促している。文覚の再興事業は建久8年に一応の終結をみたと思われるが(東宝記),建久10年の頼朝の突然の死によって失脚。再度諸堂の修造事業は中断させられた(東宝記)。13世紀中頃には東寺長者親厳が寺領の回復,寺観の整備を推進。行遍の活躍によって,東寺は衆僧の組織化を果たすことができた。鎌倉期全般にわたる東寺再興の動きは,当時の東寺領荘園の増加をうながしたもっとも大きな原因の1つである。東寺の寺領は創立時は施入された1,000戸の封戸,金剛峯寺以下の末寺と,弘仁3年に布勢内親王が寄進した伊勢国大国荘をはじめとして(承平2年8月5日太政官符/平遺4560),承和12年に藤原良房が施入した丹波国大山荘など,伊勢国川合荘,越前国高輿荘,同国蒜島荘などの寺領荘園が知られる。ほかに京中の道路を再開発して耕地化し寺領にとり込んだいわゆる東寺領巷所なども,すでに平安末期には成立していた(永久3年3月20日東寺権上座定俊申状写/阿刀弘文氏所蔵文書)。しかし11世紀後半から「千戸封物,有名無実,寺内荒廃」の状況となり,また延久元年の大風で顛倒した灌頂院もなかなか再興が困難な状態であった(東宝記)。文覚の時には後白河院から長門国・播磨国などの修造料国を拝領するなどしたが,これは文覚の失脚とともに烏有に帰しており,東寺の経済は新たな荘園の獲得にかかっていたのである。行遍は宣陽門院の絶大な庇護を受け,大和国平野殿荘,伊予国弓削島荘,若狭国太良荘を東寺常住供僧21口分の供料荘として獲得することに成功。長らく常住供僧を欠いていた当寺にとってこれは大きな前進であったと考えられる。行遍は九条道家に灌頂を授けるとともに(東宝記),道家の力を利用して護摩堂・僧房なども新造している。行遍の時はいわば中世東寺の確立期に相当するが,その後一時勢いが弱まった。五重塔は文永7年4月に炎上したが,ようやく弘安2年に東寺の大勧進職に任ぜられた願行上人憲静の活発な勧進活動が実を結んで弘安8年12月17日に修造が完成。この時に修造料国として施入された佐渡・下野両国が永代造営料国として固定されたことが,以後の東寺経済にとって大きな意味を持つことになった(東宝記)。鎌倉期に成立した東寺領は以上のほかに,山城国拝師荘,同国上桂荘,大和国高殿荘,尾張国大成荘,常陸国信太荘など約20か荘近くに及んだ。南北朝・室町期には,「太平記」にもたびたび見られるごとく戦陣の中心となったり,天皇・公家・武将などの避難場所となっている。元弘3年6月5日には配流地の伯耆国から上洛した後醍醐天皇はまず東寺に入御し,建武3年6月14日に光厳天皇を奉じて入京した足利尊氏も最初に東寺に陣を張っている(太平記・公卿補任など)。この時尊氏は当寺に楠木正成の跡地河内国新開荘などを寄進(建武3年6月15日足利尊氏寄進状,東寺文書/大日料6-3)。翌7月1日にはさらに山城国久世荘上下の地頭職を東寺八幡宮に寄進するなど(東寺百合文書/大日料6-3)。東寺に多くの寄与をしている。足利義詮も文和2年3月8日に南軍の追撃を恐れて東寺に陣を張ろうとしており(園太暦),このように東寺は南北朝期の戦乱にまき込まれて一時荒廃し寺領の武士による押領も著しかったが,やがてその一方で着実に再興にも向かっていたと思われる。文和4年に一時中絶していた御影供も貞治元年3月14日に再興されている(東寺長者補任/大日料6-24)。幕府も播磨国矢野荘など寺領の復興に尽力し,新たに荘園などの寄進・安堵を行っている。室町期に入ると文明18年8月24日の京都徳政一揆で,一揆勢は京中の所々に放火し,9月13日には東寺にたてこもった。これを細川政元軍が攻撃したところ「土一揆令放火東寺」という(後法興院政家記)。この大火事で金堂・講堂・中門その他大部分の堂宇が焼失(長興宿禰記)。この時小槻長興は「草創以来未無炎上,今度焼失,天下周章歎存事也」と,草創以来の大惨事に驚き悲しんでいる。御影堂・五重塔・灌頂院などの東寺の中心的建物は残ったが,寺の旧観は見るべくもなかったらしい(東宝記)。永禄11年9月に将軍義昭を奉じて入京した織田信長は東寺に宿所を構え,さっそく禁制を発し(東寺百合文書/織田信長文書の研究),また当知行分の寺領・境内を安堵している(永禄12年4月21日信長朱印状案,東寺百合文書/織田信長文書の研究)。豊臣秀吉は天正19年に寺領2,030石を寄進し,永禄6年に焼失した五重塔の再建を援助した。五重塔は文禄3年に再建されたが,寛永12年に再度焼失。現在のものは寛永21年のものである(国宝)。また現金堂は慶長11年に秀頼が再建したもので国宝。江戸期には山城国愛宕郡・紀伊郡・葛野郡内に朱印2,030石を安堵(寛文朱印留)。江戸幕府は諸堂の再建,東寺教学の復興をはかり,援助をたびたび行っている。明治期に入ると,神仏分離政策による痛手を受けて寺領をいったん上地され,塔頭の多くが廃止されたものの,やがて古義真言宗の総本山に定められた。しかし明治35年には真言宗として単立となり,それとともに諸堂の修理が進んだ。昭和5年に火災があったが,やがて再建整備された。五重塔・金堂をはじめとする数々の建物は国宝・国重文に指定されている。また寺宝も厖大な数にのぼり,大同2年作を含む絹本著色真言七祖像7幅,木造五大明王像5躯などの国宝・国重文がある。現在毎月21日の縁日には境内に数多くの店が並び参詣客や買物客でにぎわう。また正月の初弘法,12月のしまい弘法にも全国からの参拝客でごったがえす。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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