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長徳寺
【ちょうとくじ】


長岡郡本山町寺家にあった寺。寺家の北西部の小丘上に鎮座する若一王子宮の西に位置する。建武元年4月日の長徳寺院主宗賢書状は吾橋山開発領主頼則・盛政らが,久安5年寺領の四至を定めて紀伊国熊野神社に施入して以来,本堂といい,鎮守といい,長い間ことのほか崇敬された霊場であると記し,創建を久安5年とする(長徳寺文書/木屑)。また安元2年12月3日の土佐国庁在家役免状に「長徳寺并王子殿四至内雑万」とあり(長徳寺文書/古文叢),平安後期の熊野信仰の地方伝播によって開創された霊場であると思われる。同免状は,破壊転倒した堂宇の修理のため当寺と若一王子宮内の在家役を土佐国庁が免除したもの。鎌倉期の寛元2年8月と同年11月に守護所が修理田を寄進しており(同前),前記の宗賢書状に「年々破壊顛倒之間,先師等如形遂修造之功」とあることから,堂宇は院主の尽力で維持されていたと思われる。弘安11年2月日の左衛門尉胤茂等連署状によれば,院主は紀伊国の熊野三山検校によって補任され,熊野詣の先達も兼ねていた(同前)。開発領主の一族が院主職を代々相伝し,元仁2年4月26日付沙弥西仏譲状によると,彼らは久安5年に熊野社に寄進したという熊野社領(吾橋荘)の荘官をも兼ねていた(同前)。しかし,鎌倉末期元亨3年院主職をめぐっての紛争が起こり,また寺領内への地頭勢力の侵入も続いて寺院運営は困難になってきた。建武元年院主宗賢が地頭らの濫妨狼藉を訴え,翌2年新政府から寺領を安堵されたが(同前),違乱はやまず,寺領はのちに戦国土豪へと発展する八木(本山)氏の支配下に組み込まれる。長徳寺の名は南北朝期の永和2年3月9日の前信濃守八木寺領寄進状(長徳寺文書/古文叢)以降史料上に見られなくなるが,寺領の直接支配権を喪失したことで,衰退の一途をたどったものと思われる。天正17年の本山郷地検帳の寺家村には「山之坊」とあって,長徳寺の名は見えない。2反2歩の「寺中」の隣には「若王子宮床」がある。「土佐州郡志」は長徳寺跡として「在権現南,号吾行山,山之坊是也,蓋当時社僧也」と記すが,「南路志」には山之坊も見えず,若一王子の項に「社僧山之坊,本寺・脇寺多数これある由,退転年暦を知らず」と見えるのみ。昭和51・52年の発掘調査で,東西6間,南北3間の灌頂堂跡と推定される遺構が検出され,付近から平安後期の須恵器,中世の土製羽釜・瓦器などが出土し,多宝塔跡・坊跡なども確認された(本山町教育委員会:長徳寺址発掘調査報告書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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