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本荘町(近世)


 江戸期~明治22年の城下町。出羽国由利【ゆり】郡のうち。本荘城下町を指す。慶長7年~元和8年最上氏領(楯岡豊前守代官支配),同8年本多正純領,同9年から本荘藩領。「由利郡中慶長年中比見出検地帳」に子吉郷本城村とあるのが初見。寛永18年「由利高支配」(深井文書)によれば,「一高四万石楯岡豊前守殿。慶長八癸卯八月ヨリ元和八年迄廿年知行□,初者赤尾津亀田ニ御居城其後慶長十五庚戌歳小吉之内本庄御居城。一高弐万石。六郷兵庫頭殿。御拝領元和九癸亥歳十月ヨリ本庄ニ御居城」とある。すなわち最上義光の代官として由利に入った楯岡豊前守満茂は,当初赤尾津【あこうづ】(現岩城町亀田)に居城を構えたが,土地が狭く交通も不便なので子吉郷尾崎山に築城することとし,慶長15年着工,同17年完成した。この城を通称尾崎城・鶴舞城と呼ぶが,本来楯岡氏を本城氏と称することから本城城と呼ばれ,城下町を本城と称した。それが本荘(庄)になるのは,元和9年の六郷氏の入部以後と思われる(秋田県史・町村合併誌)。楯岡氏時代は,城は本丸・二ノ丸・三ノ丸からなる山城で,南北70間・東西38間・周囲230間,西は山に続き,南は谷地・沼に臨み,東南は古雪川(子吉川)に接し,侍屋敷150・足軽家100・町屋530ほどの城下町であった(秋田県史)。以後六郷2万石の城下町としても発展していった。寛政元年の本荘川境界論争の裁許状の中に「本荘町高千七百七十七石余は御朱印高内にて共に追々検地。新田高九百十石余有之」とある。城下は,御蔵小路・谷山小路・鉄砲小路・御徒士【おかち】小路・馬場小路・桜小路・東小路・八幡小路・寺小路などの家中【かじゆう】屋敷と,和泉【いずみ】町・後町・大町・桶屋【おけや】町・鍛冶【かじ】町・片町・観音町・西町・大工町・新町・中町・浜ノ町・日役【ひきじ】町・猟師町などの町方【まちかた】に大きく分かれる。鎮守は八幡神社。明治9年,町場は22に分け,戸数1,607・人口6,942(うち男子3,400・女子3,541)(羽陰温故誌)。同22年,本荘城下各町・古雪【ふるゆき】町・出戸町【でとまち】村・石脇【いしわき】村が合併,由利郡本荘町が成立。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7260980