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酒田(中世)


 室町期から見える地名。飽海【あくみ】郡・田川郡のうち。もとは大泉荘内の地名で,酒田湊は最上川南岸(田川郡)の袖ノ浦(現大字宮野浦)を指したが,最上川の流路変化により戦国期には北岸(飽海郡)の方が良港となったため町民の移住が始まり,次第に港町としての比重は北岸に移ったという(酒田市史上)。文献上の初見は「義経記」で,「酒田の湊は此少人の父,酒田次郎殿の領なり」とある(古典大系)。この酒田次郎が実在の人物であるか否かは不明であるが,「吾妻鏡」建久元年11月4日条の源頼朝上洛の際の供名簿や同6年3月10日条の東大寺供養行列名簿には坂田三郎の名が見え,「酒田市史上」ではこれを大泉荘坂田名の小名主としている。また幸若舞曲の「笈さかし」にも「六ちょう船のせんどう七月の初,あいた(秋田)さかた(酒田)をこぎ出し」と見え,鎌倉末期頃には,東北地方有数の港町として栄え,広く中央にも知られていたものと思われる。港町としての酒田の成立については,後の酒田の月行事となる三十六人衆に関する次のような伝説がある。源頼朝の奥州合戦によって平泉(現岩手県)を追われた藤原氏の遺臣36騎が,庄内の田川太郎をたより藤原秀衡の妹徳姫に従って当地に来住したことに始まるという。三十六人衆はその後袖ノ浦(向酒田)の地侍となり艜【ひらた】船を仕立て船問屋を家業とし,長人として酒田の町政を担当したという。この伝説はにわかには信じ難いが,鎌倉期頃からの港町としての酒田湊(袖ノ浦)の発達,問屋業を中心とする地侍層の系譜を引く三十六人衆による町政など,成立期の酒田の様相をうかがうことができる。最上川南岸(向酒田)から北岸(当酒田)への移転については,「酒田山王宮付修験旧記」に「往古(明応年間頃)酒田ハ最上川を隔てゝ南北ニ有リ,川の北を飽海郡酒田といふ,家数百四五十軒はかり,川の南を田川郡酒田といふ,家数千余軒,宮ノ浦ノつゝきにして飯盛山の西にあり,其地卑湿にしてしばしば洪水の憂ひあり」と見え,慶長4年に総移転が完了した旨が記されており(飽海郡誌上),戦国期にはすでに最上川北岸への移転が進んでいたものと思われる。泉流寺縁起や三十六人御触御用留などによれば,町政を司った三十六人衆が北岸に移転したのは永正年間~大永年間頃と思われるが(酒田市史上),浄土宗林昌寺(現酒田市南千日町)の宝永7年銘の撞鐘に「先銘曰……永禄三庚申稔残秋十八日,第二世及鎮上人華鯨一口令造鋳訖,出羽州田河郡大泉庄於酒田湊」とあり,永禄年間にはまだ町の大部分が南岸にあった模様である。また「篠山浄福寺由緒記」(県史15下)には「天文年中ニ袖ノ浦サゝハラト云所ヨリ酒田津亀ケ崎城下ニ越ル」とあるが,天正9年・文禄5年の年紀を有する浄福寺(現酒田市中央西町)の親鸞上人画像裏書(同前)にも「出羽国田河郡大泉庄酒田湊」とあるところからも,町の移転は永正年間頃から始まり,徐々に移って慶長年間頃にまで及んだものと考えられる。文明年間に蓮如は,弟子弘賢・明順の兄弟を秋田(現秋田県秋田市)と酒田に派遣し,羽州さらには蝦夷地への浄土真宗布教の拠点となった。この明順が大泉荘袖ノ浦付近に創建した道場が浄福寺の前身で,天文12年卯月6日の年紀を有する明順宛の土佐林禅棟・同氏頼連署判物(浄福寺文書/県史15上)には「今度酒田津,本願寺門徒道場,庄中門弟准拠,可令破壊之処」と見え,条件付きで浄福寺の存続が認められている。しかし,天文12年にはすでに明順は没しており,本文書は検討を要するが,当地方における浄土真宗布教の中心であったことは疑いない。また酒田は,戦国末期には舟運の全国的発達に伴い,日本海有数の港町となったが,豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し,酒田にも船舶の供出が命じられている。天正20年と推定される3月29日付の長束正家書状(二木文書/県史15下)によれば,最上義光は舟10艘の供出が命ぜられているが,義光はこれを酒田の豪商加賀屋与助に請け負わせている。天正18年豊臣秀吉の小田原の陣の際,粕谷源次郎が秀吉配下の五奉行から海上船舶の監視と海上警備の権限,およびその費用として1,000石につき1石5斗の役米徴収権を付与され,文禄3年最上義光から100石につき1石の新運上徴収を請け負っている(酒田市史上)。また慶長6年の最上氏と上杉氏の戦いに際し,粕谷源次郎・永田勘十郎は町兵を指揮して奮戦したといい(宝暦11年三十六人筋目書/飽海郡誌中),江戸初期にも武士身分として帯刀・飼馬の権限が認められていた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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