酒田(近世)

江戸期~明治22年の地名。酒田湊と亀ケ崎城下の総称。はじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海郡のうち。はじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領。元和元年の一国一城令にもかかわらず,庄内藩には2城が認められ,藩主は鶴ケ岡城(現鶴岡市)を居城とし,酒田の亀ケ崎城には家老格の要職として城代が任ぜられ,奉行所が置かれた。亀ケ崎城下の東禅寺分と呼ばれた米屋町組・内町組と,酒田湊と称された酒田町組とからなる。酒田御町ともいい,狭義には港町である酒田町組のみをさす場合もある。町分に酒田町(酒田村)がある。慶長5年の兵火の後,本格的な町割りが実施され,亀ケ崎城の城下町と港町が直結され,東西に貫通する4条の大通りと,それをつなぐ南北の数多くの小路が設けられ,碁盤の目をなした。問屋や豪商たちのいる本町は,最上川筋に沿って一直線に幅8間の大通りに割り付けられた。その北側には中町・内匠町・寺町などが設けられた。元和8年の推定家数821・人口4,105。明暦2年の酒田町絵図では町数37,家数1,277・人口6,385(酒田市史上)。天和2年の町割家数人数書上帳(県史17)では,町数49,家数2,251・人口1万2,604。町名としては,本町・中町・糟屋小路・地持院小路・地蔵院小路・大工町・伊勢津小路・桶屋町・林昌寺小路・鍛冶町・片肴町・上袋小路・稲荷小路・山椒小路・中袋小路・御宿小路・下袋小路・利右衛門小路・染屋小路・秋田町・荒町・上猟師町・下猟師町・上台町・下台町・伝馬町・今町・上内匠町・下内匠町・寺町・檜物町・十王堂町・笠屋町・内町・片町・給人町・淡路小路・本米屋町・細肴町・中ノ口川端・新町・浜之町・米屋町・八軒町・山王堂町・荒瀬町・近江町・鶴田口浜町・一ノ口川端がある。戦国期以来,日本海有数の港町であった当地には,有力商人からなる三十六人衆を中心とした自治的伝統があった。彼らは北方海運の廻船業を主とし,蔵米の諸払いや,材木輸送,物資の移入税の徴収を請け負う代官的な豪商でもあったが,元和8年の酒井氏入封以後,庄内藩の支配機構の整備が進むにつれ,町政に対する権限は漸次縮小されていった。町支配は,町奉行の下で3組に分けられ,内町組と米屋町組には大肝煎(天和2年以降は大庄屋)と組下各町に肝煎が置かれ,酒田町組には,三十六人衆から選ばれた3人の年寄と,長人3人の月行事が町政に参画した。酒田港の物資の集散が急激に増加するのは,河村瑞賢によって,寛文12年に出羽幕府領の年貢米を西回りで江戸へ輸送するようになってからである。それ以前から蔵米や城米が上方へ輸送されてはいたが,西廻航路の整備によって西国方面の廻船が急速に北国へ進出増加したものである。酒田の日和山には村山・庄内の幕府領の城米を保管する瑞賢蔵と呼ばれた米置場が設けられた。当地の有力商人は,最上川流域の山形・米沢・新庄・天童などの諸藩の蔵宿を務め,仲間を形成していた。井原西鶴は「日本永代蔵」(古典大系)で「爰に坂田の町に,鐙屋といへる大問屋住けるが,……近年次第に家栄へ,諸国の客を引請,北の国一番の米の買入,惣左衛門といふ名をしらざるはなし」として酒田豪商の1人である鐙屋【あぶみや】の繁栄を描いている。天和年間の記録では,入港船数は,春から9月までに2,500~3,000艘とあり,月平均では315~375艘もの船が停泊していたことになる(酒田市史上)。上方からの木綿・衣類・砂糖・塩などが,酒田問屋の手によって川船に積み替えられて内陸の商人に送られ,最上川を川船で運ばれてきた内陸の米・蔵物・紅花【べにばな】・青苧【あおそ】・蝋・タバコなどの特産品は,酒田に寄港する諸国商船によって上方に運ばれていった。江戸後期,天明8年に幕府の巡見使に随行した古川古松軒は「東遊雑記」(生活史料3)に「此所,羽州第一の津湊,市中三千余軒,商家にて人物・言語大概にて,諸品乏しからず。九州・中国および九州・大坂より廻船交易のために此浦に泊して,国中の産物を積事なり」と記した。特権的大商人を中心とした酒田は,諸国往還の津として元禄期に全盛をきわめたが,享保期以降になると,本間家などの新興商人層が台頭してくる。酒田の豪商本間家が町年寄として町政に参画してくるのは享保年間頃の久四郎原光の時であり,また,問屋・海運業に加えて地主として土地集積に着手したのもこの頃からであった。特に光丘の代には,領内第一の地主となっている。また光丘は酒田西浜の防砂造林や窮民救済に尽力するとともに,庄内藩の勝手向取計や郡代次席となって藩財政の再建に尽力した。そのほか,米沢・新庄・松山・亀田・矢島などの諸藩とも巨額の金融関係があった。土地集積では慶応3年には4郡49か村3万1,000俵の年貢米を収納するようになっている。蝦夷地が幕府領化した寛政11年以降,酒田は蝦夷地よりの物産中継地として,あるいは本間家などが蝦夷地開拓の資金投資をしたり,板屋惣兵衛・五十嵐七郎左衛門などが御用達商人となるなど蝦夷地経営と深い関係が生まれた。特に道産荷物は西廻航路を主として輸送された。明和5年に士分に取立てられていた本間家は,安政年間頃には商業および問屋業を縮小していたと思われるが,なお蝦夷地取引のために10艘余の千石船を有していた。海運により上方との強い関連のあった当地には,さまざまな文化人が訪れ,当地からも上方・長崎に遊学して名を残した人々も多かった。京都の岡白駒【はつく】門下の上林白水・釈公厳,皆川淇園【きえん】に師事した曽根原魯卿,長崎に赴き,シーボルト門下のアメリカ人フルベッキに師事した蘭学者本間光喜・佐藤政養などがその例である。また,最上義光の軍師一吁軒【いちうんけん】の世話で,越前から酒田に来訪した山本宗佐は俳諧をひろめたといい,天和3年には俳人三千風が訪れており,元禄2年には松尾芭蕉が寺島彦助宅で句会を催している。その後,与謝蕪村・池西言水も訪れており,頼春水の「負剣録」(明和7年),中山高陽の「奥遊日録」(安永元年),平沢元愷の「漫遊文草」(安永7年),古川古松軒の「東遊雑記」(天明8年),また菅江真澄の「あきたのかりね」をはじめとする数多くの紀行文にも酒田来訪の記事がみられる。さらに嘉永元年には秋田より頼三樹三郎が,同5年には吉田松陰が当地を訪れ,雲井竜雄が,鶴岡・酒田を経て米沢へ入ったのは慶応2年のことといわれる。戊辰戦争では,庄内藩の下で,酒田は町兵を編成し,三十六人衆が各隊の司令を勤め,庄内藩御用商人の本間家の金策で,庄内藩は酒田港からオランダ商人スネルを通じ武器を密輸入した。新政府に抵抗した庄内藩が降伏すると間もなく,この地方の要衝にあたる酒田をはじめ旧幕府領は民政局の管轄となり,酒田には酒田民政局が置かれ,明治2年には酒田県(第1次)が成立した。同年最上川の北方,荒瀬・平田・遊佐の3郷の旧幕府領下は,酒田県の現物納制や同年の凶作により天狗騒動と呼ばれる農民の大規模な一揆が展開されるが,この騒動の指導者には酒田問屋頭長浜五郎吉がいた。さらに,明治6年からは田川郡下の農民による石代納要求にはじまるワッパ騒動が始まり,酒田商人森藤右衛門を代表として県を相手どった裁判訴訟,嘆願運動が展開されるなど,酒田商人がその指導者として重要な役割を演じている。なお,当地は江戸期以来数度にわたり火災や洪水などに見舞われた。特に元禄15年の大地震,明暦2年・宝永4年・享保11年・宝暦元年・同9年などの大火や,天和2年・宝永4年・明和8年・天保4年などの大洪水があり,文化5年白崎五右衛門は私財を投じ防火施設を設け,文化13年には町で消防別動隊を編成している(酒田市史上)。明治3年の戸数3,424(酒田市立光丘図書館所蔵,野附家文書)。同4年酒田県(第2次)県庁が旧亀ケ崎城に置かれた。同6年の戸数3,859・人口1万8,532(酒田県治一覧表)。同11年の戸数3,741・人口1万7,437(県史19)。鶴岡県を経て,明治9年山形県に所属。明治11年飽海郡に属し,同22年酒田町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7262967 |