達磨寺村(近世)

江戸期~明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年幕府領,寛永13年幕府領,天和2年村山藩領,元禄13年幕府領,天保14年からは山形藩領。村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,136石余,天保13年の村山石高帳には達摩寺と見え変わらず。寛永5年の達磨寺村検地帳全5冊のうち3冊が現存し,内匠・内記・大学・ぬいの助・掃部など,明らかにもと武士と思われる耕作者名が見える。正徳2年長崎村ほか4か村とともに,深沢(現西村山郡大江町大字三郷字深沢)の堰口からの通水を願い出ている。しかし代官所の普請援助額が多額なため中止となった(中山町,毛利家文書)。用水に悩む当村は,玉虫沼および荒谷・杉下両溜井の受益村8か村のうちに加盟していたが,沼尻に位置しているために水の供給が不十分であった。宝永6年には水源の高楯村(現山辺【やまのべ】町)との間で水論が起き,他村名主の仲裁で和談が成立している(中山町,杉下家文書)。享保元年中野村(現山形市大字中野)・船町村(現山形市大字船町)・内表村(現山形市大字内表)の3か村が当村分の原野を青刈りにしたことから争議が起き,江戸へ越訴した。3年越しの争議の結果当村の勝訴となり,記念の地蔵庵が建てられた(中山町,原田家文書)。享保7年の凶作には旱損検分願いが提出され,それによると,上田9町のうち5町5反,中田6町6反のうち4町6反,下田7町6反,下々田4町7反,新田11町3反,計33町7反が植付け不可能であったという(中山町,村箪笥文書)。寺社は,元和元年の創建といわれる曹洞宗少林山達磨寺,直指庵,八幡神社がある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別248町6反余,戸数149・人口828,達磨寺学校がある。明治11年東村山郡に属す。同21年最上堰が完成。同22年最上村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7263709 |