長瀞村(近世)

江戸期~明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,寛永20年幕府領,寛政10年からは長瀞藩領。村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では361石余,享保6年の東根領覚書(東根市史資料4)では3,376石余,「天保郷帳」「旧高旧領」および天保13年の村山石高帳などでは3,382石余。寛文11年長瀞城跡に延沢(野辺沢)銀山陣屋(現尾花沢【おばなざわ】市)を廃して長瀞陣屋が設置されたが,天明2年尾花沢陣屋の出張陣屋となり,寛政10年米津氏1万石の居城となる。最上川と白水川の氾濫に悩む水損がちの地であったが,日照りが続くと水利が悪く旱損の地でもあった。米以外の物産は大麦・小麦・アワ・ヒエ・タバコ・紅花【べにばな】など。享保8年,幕府の流地禁止令を名主たちが村民に通知しなかったことにより,百姓新兵衛ら300余人が名主や質地地主を襲った長瀞質地一揆が発生,山形藩は800余名の兵を派遣して鎮圧した。享保15年松沢村・大久保村と協議して白水川の掘替工事を実施。天保9年の村明細帳(東根市史資料6)によれば,家数423軒・人口2,218(うち出家8・修験2・医者1・大工5・座頭3など),馬80の大村である。嘉永6年大火により53戸を焼失。戊辰戦争に際しては米津氏が庄内藩酒井氏と結んでいたため官軍についた天童藩に攻撃され,慶応4年4月城は焼失した。地内北方【きたかた】の鎮守伊豆宮は,明治維新のとき日枝神社と改称。同神宮の社殿は嘉永元年に焼失し,同2年に再建された。八幡神社は長瀞城の鬼門守護のために応永年間の創建と伝える。このほかに熊野宮・天満宮・弁財天宮・雷神宮などがある。これらの神社の別当は修験長瀞寺。曹洞宗禅会寺は応永22年斯波満家の創建と伝え,元禄年間に再建され,境内には開基斯波満家の墓がある。浄土真宗光徳寺は江戸初期の開創といわれ,安政年間に焼失し,文久年間に再建された。時宗長源寺は永仁2年の創建と伝える。ほかに曹洞宗竜慶寺がある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別530町余,戸数512・人口2,681,長瀞学校がある。同11年北村山郡に属し,同22年長瀞村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7264057 |