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最上郡(古代~中世)


奈良期~戦国期に見える郡名「和名抄」刊本では「毛加美」とよむ和銅3年3月頃から霊亀2年頃にかけてのものと推定される平城宮出土木簡に「陸奥国裳上郡裳□□」とあるのが初見当時の最上郡は陸奥国に属していたことがわかる大化改新後,律令制支配は,陸奥国より奥羽山脈を越えて山形県内陸地方へと浸透していたのである建郡は未詳最上郡の南にある置賜【おきたま】郡の建郡が,天武・持統朝であることより,ほぼ同じころ最上郡も建郡されたとも推測される最上郡への中央支配の浸透は思いのほか早かったと思われる和銅5年10月,陸奥国に属していた最上郡は,置賜郡とともに出羽国に移管されたしかし,この時は方針が発表されたのであり,実際の出羽国への移管は霊亀2年9月ころであったらしい(続日本紀)ここに,出羽国最上郡が正式に成立することになったこの時の郡域は,最上川中流域,村山盆地より新庄盆地に及ぶ極めて広大な領域であった最上郡の最上は,郡内を縦断して流れる最上川に由来したと思われる現在の上山市・山形市・山辺町・中山町・天童市・東根【ひがしね】市・寒河江【さがえ】市・大江町・朝日町・西川町・河北町・村山市・大石田町・尾花沢市・舟形町・最上町・大蔵村・新庄市・戸沢村・鮭川村・金山町・真室川町にわたる奈良期,天平5年12月,出羽柵が秋田村高清水岡(現秋田県)に遷置されることが決まり,陸奥国多賀柵と出羽柵とを結ぶ円滑な交通路をひらく必要が生じたここに按察使鎮守府将軍大野東人【あずまんど】の建議で,多賀から秋田までの雄勝経由の内陸直路を開削することになった天平9年2月,多賀柵を出発した東人の軍は進撃を続け,陸奥国賀美郡(現宮城県)より出羽国最上郡玉野(現尾花沢市域)に至ったさらに北上したが,新庄市北方の山里,比羅保許山(有屋峠か)の付近にはまだ中央政府に従わぬ蝦夷が住んでいた,と「続日本紀」に見え,最上北部の蝦夷が,まだ中央政府の支配に入っていない状況を示しているこの東人の遠征により雄勝村(現秋田県)の蝦夷が帰順し,出羽柵に至る駅が設置された(続日本紀,天平宝字3年9月26日条)その後,最上郡は宝亀・延暦年間の蝦夷反乱にまきこまれ,宝亀11年12月,最上郡大室塞(現尾花沢市域)が蝦夷の手に落ちた(続日本紀)延暦11年11月,最上郡の狄田租が永免された(類聚国史)ことも,蝦夷反乱と関係しており,最上郡住民が俘軍として出動したことへの優遇措置とも考えられ,従軍のために農耕も放棄せねばならなくなったことを物語っている承和11年7月,最上郡人外従八位上勲七等伴部道成・男外少初位上勲九等継益・白丁吉継・秀益・継守・同姓勲九等福尊ら7人に吉弥侯【きみこ】の新氏が与えられた(続日本後紀)伴部は大伴部につながり,大伴氏系である出羽国においても陸奥国と同様に旧国造クラスの豪族に対して大伴氏が強い影響力を持っていたことを示しているただし,吉弥侯の新氏となっているのは,出羽国豪族の氏のあり方に動揺が生じたことを意味するものと思われる(新野直吉:出羽の国)元慶2年,いわゆる元慶の乱の発生により,同年6月最上郡擬大領伴貞道と俘魁玉作宇奈麿が遣わされ,官軍560人をひきい,賊の形勢をうかがっていたところ,賊300余人と遭遇して合戦となり,官軍は賊19人を射傷し,貞道は戦死,官軍にも負傷者7人が出るという事件がおきた(三代実録)最上郡郡司・住民が官軍として駆り出されていたのである元慶3年3月2日,出羽権守藤原保則は蝦夷との戦闘終了を奏上する中で,「管最上郡,道路嶮絶,大河流急,中国元軍,路必経此」と述べている(同前)最上郡内の道路・大河(最上川のことと思われる)が,蝦夷征討軍のための軍需物資・兵士輸送にとって大動脈であったことがわかる陸奥国より,奥羽山脈を越えて最上郡内の最上川・道路を利用して北上し,庄内地方より秋田方面に至る古代の交通体系を知ることができる秋田城跡(現秋田県)より出土した「最上郡 最上郡佰□」という木簡は,秋田城と最上郡との関係をうかがわせる元慶の乱が鎮圧され,最上郡にも平和がおとずれた仁和2年11月,最上郡が2郡に分けられた(三代実録)最上郡と村山郡の成立である分郡の理由は,人口の増加,土地開発の進展,元慶の乱後の地方政治に対する強化などであろう「石行寺文書」(県史15上)所収の文和2年3月9日大般若経写経奥書に「出羽国最上郡磊行寺」,「願正御坊縁起」(県史15下)に「最上郡高瑜庄」天文3年立石寺日枝神社棟札(同前)に「出羽国最上郡宝珠山立石寺」(県史15下)などとあること,さらに小田島荘・寒河江荘が中世に入って村山郡内の荘園としてあらわれてくること,などより考えて,仁和2年以降の最上郡は,乱【みだれ】川よりも南,最上川および,寒河江市の南方で最上川が大きく西へ曲る後の最上川の南,南を上山市南方の山々,東を奥羽山脈に囲まれた地域に比定できる山形盆地の南半分とその周囲の山地,最上川支流の須川・立谷川・馬見ケ崎【まみがさき】川の扇状地帯に位置する今の上山市・山形市・山辺町・中山町・天童市・朝日町にわたる「地名辞書」は,寒河江市・河北町をも最上郡に入れているが,誤りである郡内の「和名抄」郷は,高山寺本では,郡下・山方・最上・芳賀・阿蘇・八木・山辺・福有の8郷その他,仁和3年,出羽国井口地にあった国府を「最上郡大山郷保宝士野」に遷建したいとする出羽国守坂上茂樹の上奏文(三代実録)に見える大山郷も,最上郡に入るものと思われ,全部で9郷である当郡は,古来より出羽国の中で最も古くから開発がすすみ,律令制的支配の進展,文化の興隆がみられた所であった当郡の周辺の山麓からは,谷柏・菅沢・高原・衛守塚などの竪穴式石室をもつ,県下でも古い時期に属する古墳が多数発見されているさらに,須川・馬見ケ崎川の自然堤防上,あるいは扇状地の扇端部の湧水地帯からは,嶋遺跡・塚田遺跡などの集落群が発見されており,さらに三本木沼・寒居遺跡のように山麓地帯・山間部へと遺跡はのびている当郡には実に多くの古代集落があり,県下では最も人口密度が高かったと思われるまた,条里制遺構が,山形市の西部から西南部にかけて数多く見つかっているさらに,慈覚大師円仁の開基と伝えられる山寺立石寺【りつしやくじ】の存在は,文化的にも当郡が高い地位にあったことを示す「延喜式」にある出羽国古代駅制も,最上駅より出発している最上駅は,駅馬15疋・伝馬5疋を備えた出羽国随一の駅で,当郡は,古代出羽国の交通の要でもあった仁和3年の出羽国府を「最上郡大山郷保宝士野」に遷したいという上奏は,以上のような最上郡の持つ政治・経済・交通・文化における歴史的位置の高さを考慮に入れた時,十分に納得できよう最上郡衙の位置は未詳最上郷に設置され,現在の山形市街地の東北部,印役町の神明社の西方にあったとする説もある(山形の歴史)が,根拠に乏しい文永3年9月5日の金銅造阿弥陀如来立像銘(県史15下)に「奉安置出羽国最上郡府中荘外郷石仏」とあるこの最上郡府中とは,最上郡衙のことか荘外は,現在の天童市の南端,立谷川の北岸に位置するあるいは,山形市街地にあった郡衙がのち後に荘外に移動したものかさらに,かつての芳賀・阿蘇郷を中心にして成生荘,那可・最上・大山・山方郷より大山荘,山辺郷より山辺荘,福岡郷より大曽禰荘が成立したここに郡域は,その全部が荘園になっていくかに見えるしかし,文永3年金銅造阿弥陀如来立像銘に「奉安置出羽国最上郡府中荘外郷石仏」(県史15下)とあるのは,成生荘の中に郡衙周辺の小地域が成生荘に含まれず,公領として残ったことを示すのではあるまいかごく狭い範囲ではあるが,荘外郷の付近が最上郡郡分田として残ったことが,中世を通じて最上郡の呼称が用いられたことと関係するのではないかと推察される中世においては「出羽国奥州両国浄土真宗開基最上郡高瑜庄」(願正御坊縁起/県史15下),「出羽国最上郡宝珠山立石寺」(立石寺山王神社棟札/県史15上),「出羽国最上郡之内粟生田郷」(国分文書/県史15上),「羽州最上郡小鶴郷安養寺」(陸前新宮寺文殊堂文書/県史15上),「出羽国最上懸(ママ)山辺荘沼尾(尻)郷」(清源寺鐘銘/県史15下)などと見えるしかし,若松寺観音堂巡礼札(県史15下)に「出羽州最上郡卅三度(ママ)順礼」(大永6年3月17日)とあるが,「出羽国村山郡天童住人」(文亀3年9月吉日)とも見え,本来最上郡内であるはずの天童が村山郡内とされているまた,天文3年6月14日の日付を有する願行寺阿弥陀如来画像裏書(同前)に「出羽国最上郡村山郷高楡村専称寺常什物」とあり,当郡内に村山郷が在存したようにも見える南北朝期,当初当郡内では天童城(現天童市)に拠る北畠天童丸,山家【やんべ】楯(現山形市)に拠る山家信彦などがおり,南朝方が優勢であった延文元年,奥州管領斯波家兼は次男兼頼を山形に入部させ,兼頼は山形に築城して北朝勢力の強化を図った斯波氏はのちに最上氏を称し,その庶子を高楯城(現上山市),天童城などに分封しほぼ郡内全域を支配下に置いたものと思われるしかし,文正2年11月吉日の伊達尚宗渡状案(国分文書/県史15上)によれば,伊達氏の家臣国分河内守が当郡内の粟生田郷(現山形市)を先例に任せ安堵されており,室町期には当郡内の一部が伊達氏の支配下に置かれていたものと思われるその後最上氏は義光【よしあき】の代に至り,積極的に郡内の平定を指向し,天正8年に天童氏を滅亡させ(一説には天正12年とする),天正12年には寒河江【さがえ】大江氏を滅ぼし,またその間天正9年には村山郡もほぼ支配下に治め,最上・村山両郡を制圧した天正18年の豊臣秀吉の奥羽仕置によって最上義光はこの両郡を安堵されている文禄年間,太閤秀吉が検地を命じた際,南を村山郡,北を最上郡とし,古代から続いた最上・村山両郡の位置関係が逆転した現在の両郡界が政治的に確定したのは江戸初期,正保の国絵図作成時と思われるただし,同国絵図では,のちに最上郡に含まれる最上川南西部の古口・蔵岡・角川・南山・赤松・堀之内と満沢(小国郷)の各村は村山郡に含まれている過渡期の事情を示すものともみられる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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