柳沢村(近世)

江戸期~明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,正保元年幕府領,天和2年村山藩領,元禄13年幕府領,文政6年陸奥白河藩領,慶応2年からは陸奥棚倉藩領。村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では579石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに694石余,天保13年の村山石高帳でも変わらず。元文2年長崎村庄屋黒沢源右衛門らにより,石子沢をせき止める柳沢開削工事が着手され,寛保元年に完成した。文政4年8月岡村・小塩【こしお】村・金沢【かねざわ】村とともに,春以来の干魃のため田方見分を代官所に願い出ている(中山町,西塔家文書)。それによると,田反別26町1反余のうち6町余が枯れ,12町余が空穂であった。また同年10月には,日照りのため紅花【べにばな】が3分の1以下,青苧【あおそ】は大風雨のため半分しかとれなかったという。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別157町5反余,戸数121・人口712,柳沢学校がある。明治11年東村山郡に属す。同21年最上堰が完成。同22年豊田村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7265116 |