山形藩(近世)

江戸期の藩名譜代・中藩居城は山形戦国期の覇者最上義光は関ケ原の戦後置賜【おきたま】を除く現在の山形県の全域と秋田県の南部に及ぶ広大な所領を家康から安堵された所領は57万石と公称されたが,実高は75万石ともいわれた最上氏は家親その子の義俊と継がれたが,一族や有力家臣間の対立抗争が続き,元和8年,国政不取締のかどで改易に処された義俊は近江(現滋賀県)に移され,近江・三河(現愛知県)両国に各5,000石の1万石を与えられた元和8年最上氏改易後の山形城には譜代の鳥居忠政が磐城平(現福島県いわき市)から22万石(20万石ともいう)で入封した村山盆地の周辺部を除き,山形を中心にした村山地方の中央部を一円的に領したそのほか寒河江【さがえ】領2万石を預り地として管理し,豊田壱岐を代官とした豊田代官は水帳改めなどで領民の反感をかい,石黒茂助が代わって代官となった寒河江領は寛永3年に鳥居民に加増され,寛永4年には上山藩領であった谷地領1万5,000石が収公されると鳥居民の預り地となった元和9年に実施した領内総検地は,村山地方における近世検地の最初のもので,6尺5寸縄の300歩1反とし,石盛法を用いず斗代取米法を施行し,村ごとに「定納之事」と標記した貢納割符を交付した忠政の子忠恒は寛永13年に継嗣を定めずに病死したため所領は没収され,異母弟忠春は信濃高遠(現長野県上伊那郡高遠町)に3万石を与えられ,鳥居家の跡を継いだ鳥居氏と崇替に信濃高遠から将軍家光の異母弟にあたる保科正之が20万石で山形に入封した村山郡の周辺部の寒河江領の2万石,谷地領1万5,000石,尾花沢領2万石が幕府領となった正之は寛永16年に検地を施行して村ごとに「定納一紙」を交付し,また寛永15年には白岩騒動を鎮圧した寛永20年,正之は会津(現福島県会津若松市)に転封(23万石)し,翌正保元年正月越前大野(現福井県大野市)から松平直基が入部するまでの約半年間は幕府の直支配となり,代官松平清左衛門が郷村を管理した松平直基は15万石であったから,山野辺以下の周辺部が収公された直基は慶安元年6月播磨姫路(現兵庫県姫路市)に転封し僅か5年間の領有だったのでみるべき施政はないが,正保2年の大庄屋任命は地方を整備したものとして注目される直基と交替に姫路から松平忠弘が入部した山形は「奥筋の押え」として中国筋の姫路と同様に幕府の軍事的要衝として,譜代藩の交替地であったが,寛文8年8月の奥平氏の入部以後は左遷の地となった観がある奥平氏の山形転封は,殉死の禁を破り,家臣の党争などのため11万石から9万石に減封の上の左遷であった漆山領3万石は幕府領となり,東根【ひがしね】領3万石は宇都宮(現栃木県宇都宮市)に転封した松平忠弘領となったこの頃から村山郡は山形藩領の縮小につれて幕府領・諸藩の飛地領が増大し,村付も入り交った錯雑状態を呈するに至った奥平氏時代の侍屋敷323,扶持人屋敷383,足軽853,山形町屋2,381,所領107か村大老堀田正俊の横死後,その子正仲は10万石で貞享2年6月山形に移ったが,翌貞享3年7月には福島(現福島県福島市)に転じたそののちには松平直矩が豊後日田(現大分県日田市)から10万石で転封した直矩は直基の子で,藩内不取締のかどで7万石に減封されていたのである元禄5年8月には白河(現福島県白河市)の松平忠弘と崇替となり,次いで元禄13年正月には福島から堀田正虎が再び山形に10万石で入封した堀田正虎は先の山形藩主正仲の弟であるこれまでの山形藩主はいずれも短期間の在封であったが,堀田氏は延享3年まで正虎・正春・正亮の3代46年に及んでいる享保8年の長瀞騒動の鎮圧や,質地と名寄帳の整理を実施したことが注目される堀田氏時代の元禄期以降は,村山地方は,青苧・紅花などの特産品や余剰農産物の販売が盛んに行われ,山形商人や在町商人の商業活動が盛んになり,最上川の舟運が活況を呈した堀田正虎は延享元年大坂城代となり,4万石を大坂近傍に与えられたので村山郡の4万石は幕府領となった延享3年正亮は下総佐倉(現千葉県佐倉市)に転封し,松平乗佑(6万石)が山形に転じた乗佑の山形城付領は3万7,000石で,ほかは下総・常陸(現茨城県)などに領有し,堀田正亮も村山郡に4万石を飛地として領有した松平乗佑の所領は山形城下2万石と,周辺の22か村のみであった最上氏以来の大規模な山形城はこの頃から衰微し,整理縮小されたことに明和4年に秋元氏が入部するまでの3年間の幕府領時代は甚しく荒廃した秋元氏は凉朝【すげとも】・永朝【つねとも】・久朝・志朝【ゆきとも】の4代78年間で,歴代山形城主のうち最も長かったこの間には天明の飢饉や享和元年の村山郡一揆,天保の飢饉などがあった弘化2年11月上野館林(現群馬県館林市)に転封したあとも,村山郡に4万6,000石余を領有し,漆山に陣屋を設けて支配した弘化2年から山形城主となった水野忠精は,先に天保改革を実施した忠邦の子で,7万石から5万石に減封された上の辺地への左遷であった秋元氏から水野氏の時代にかけての藩財政策として特色あるのは,領内の豪商・豪農を御用達として,御用金や献金をもって藩財政を維持したことである特に水野氏は紅花専売を企図したが,商人の力に押されて実現することができなかった山形城下は船町を外港として最上川を通じて上方市場と結びつき,内陸最大の商業都市として栄え,また羽州街道の宿駅でもあった忠精の子忠弘のとき戊辰の動乱を迎えた藩主父子在京の留守中,家老水野三郎右衛門元宣【もとのぶ】が中心となって激変する情勢に対応した慶応4年4月には新政府軍を迎えて庄内藩と交戦し,やがて奥羽越列藩同盟に加盟したが,明治元年9月敗れて降伏した同年12月藩主忠弘は謹慎を命じられ,同2年6月版籍を奉還して山形藩知事に任命されたが,同3年7月近江朝日山藩知事に転出し,山形藩領は,政府直轄から山形県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7265147 |