100辞書・辞典一括検索

JLogos

30

山野辺村(近世)


 江戸期~明治18年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,正保元年幕府領(寒河江【さがえ】代官所支配),天和2年村山藩領,延享2年米沢藩預り地,明和3年再び幕府領(はじめ長瀞【ながどろ】代官所預り地,同7年からは柴橋代官所預り地),文政6年陸奥白河藩領,幕末期からは陸奥棚倉藩領。村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では3,221石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに2,870石余,天保13年の村山石高帳でも変わらず。寛文年間の反別174町余(うち田109町余・畑55町余)。享保年間の家数321軒・人数1,255(山辺略史)。慶長6年山形城主最上義光の四男義忠が山野辺城を築城し,城下の南に鍛冶町,東に上町・中町・下町を配して城下町としての整備を行った。しかし元和8年最上氏の転封に伴い,城郭は破却され,以後在郷町として発展したが,文政年間以降陸奥白河藩の陣屋が置かれた。用水は,玉虫・荒谷・長沼・弾正淵の溜井を利用。御林諏訪山2か所20町歩,木数540。酒造株7・油絞株2,年貢は須川の車ケ淵から積み出した。当村の中町・八日町の通りに2・6・9の九斎市が立ち,青苧【あおそ】市も栄えた。元治元年の「名所名物番付」にも,「山ノ辺蚊屋地」「山ノ辺木綿糸」が見え,青苧を原料とした蚊帳・木綿織が知られている。天保年間,染屋から発展した木綿製造兼蚊帳製造業者が7軒ほどあった。「東講商人鑑」には,紅花【べにばな】・青苧問屋の米沢屋清五郎,綿布古着を扱う升屋文治郎など商人5名が記されている。神社は,諏訪神社・三嶋明神・熊野神社がある。寺院は,浄土真宗専念寺・浄土宗浄土寺・同西岸寺がある。また羽黒派修験宝寿院・同金剛院・同和光院・同地蔵院は大寺村蓮乗院の支配下にあった。ほかに地蔵堂・勢至堂がある。寛政2年,高山彦九郎は小野小町ゆかりの山辺の「窓の梅」を見に訪れている(北行日記)。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別218町4反余,戸数326・人口1,921,山野辺学校がある。同13年の特産物は,実綿・繭生糸・蚕卵紙・藍葉・白木綿・蚊帳地など(物産取調帳)。明治11年東村山郡に属し,同18年東高楯村ほか2か村と合併して山辺村となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7265184