長沼藩(近世)

江戸期の藩名家門・小藩寛文元年常陸水戸藩主徳川頼房の五男松平頼隆は,水戸藩より2万石を与えられ分家元禄13年頼隆は幕府より陸奥・常陸国内において,新たに2万石を封ぜられ,旧領を水戸藩に返上し,長沼に陣屋を営み成立松平氏は,以後10代にわたって在封藩領は岩瀬郡18か村,常陸行方【なめかた】・茨城・新治【にいはり】3郡のうち19か村享保年間以降,藩財政の逼迫と農村の疲弊が表面化するこの赤字補填のため本家水戸藩からの援助や藩内外の商人・地主らからの借入を行った慶応4年新政府軍の会津進撃が開始された際に,会津藩は長沼藩陣屋の土地借用を申し出る3月26日長沼藩の返答を待たず,会津藩は長沼陣屋に攻撃を加え,これを接収し,長沼藩兵は新政府軍編成下に入り,5月1日には白河表,6月26日棚倉【たなぐら】攻略に参加した明治2年,10代藩主頼策は知事に任命され,石岡県(茨城県)を経て,福島県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7269182 |