福島藩(近世)

江戸期の藩名譜代・中藩居城は福島延宝7年大和郡山藩主本多政長の遺領を継いだ忠国が,15万石を福島に封ぜられて成立忠国は,万正寺村に築城の計画をたてたが,天和2年播磨【はりま】姫路(兵庫県)に転封となり,新城は実現しなかった忠国転封後,福島の地は一時幕府領となり,貞享3年出羽山形(山形県)より,堀田正仲が10万石で福島に入封藩領は,信夫【しのぶ】郡一円87か村,伊達【だて】郡内17か村,宇多郡1か村堀田氏は2代にわたって在封入封当初より藩財政の窮乏に直面し,家臣の俸禄を減じたり,絹改役・温泉役などの諸税収奪強化を行った元禄13年堀田氏は山形へ復帰し,福島は再び幕府領となるその後,元禄15年信濃坂木(長野県)より板倉重寛が,3万石で入封板倉氏は12代160年余にわたって在封藩領は,信夫郡内23か村・伊達郡内8か村・上総山辺郡(千葉県)内3か村・三河幡豆【はず】郡(愛知県)内1か村重寛は,福島城と城下町の整備に努めたが,それに伴い藩財政・農村は次第に困窮した延享2年年貢増徴と役人の不正に対して,藩御用達商人への打毀を伴う惣百姓一揆が発生さらに天明3年から同6年の飢饉が,農村の困窮をいっそうおしすすめたこのため福島藩は村替を幕府に嘆願して城地返上の願書を提出この結果,寛政4年幕府は三河刈谷【かりや】藩主土井兵庫頭の失政を理由に,福島城付地のうち1万27石余と三河刈谷藩領内の碧海【あおみ】郡内1万石余との村替を命じた天保4年福島藩では物産会所を設置し,生糸の専売を実施し,安政6年に横浜が開港すると,藩の特産物の生糸は,西欧諸国へ輸出されたが,同時に生糸相場の上昇と,それに伴う諸物価の上昇が大きな社会問題となった元治元年幕府は蚕種・生糸についての新税徴収を布告し,これに対し,慶応2年には,新税反対・物価値下げをスローガンに,藩領域をこえて信達各地に大一揆が発生した戊辰戦争に際しては奥羽越列藩同盟に加わり,慶応4年9月新政府軍が福島に入城12月福島藩は2,000石の減封を命ぜられ,会津大沼郡に転封となったが,事実上の就封をみないまま三河重原【しげはら】(愛知県)に移され,廃藩となった

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7269956 |