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牛久藩(近世)


江戸期の藩名慶長6年旗本山口重政が,常陸に5,000石を加増され1万石となり立藩慶長16年重政は下野【しもつけ】に5,000石を加増され,1万5,000石となったが,同18年嫡子重信が幕府の許可を受けないで大久保忠隣の養女と婚姻したことで勘気を受け,除封され一時廃藩しかし寛永6年重政は大坂夏の陣の軍功などによって,常陸河内郡・遠江において1万5,000石余を与えられ再び立藩寛永12年重政の遺領を相続した四男弘隆は,弟重恒に5,000石を分知し1万石余となるのち山口氏は譜代大名として,重定・弘豊・弘長・弘道・弘務・弘致・弘封・弘毅・弘敞・弘達の10代相続した藩領は寛文4年に常陸河内郡・信太【しだ】郡15か村と近江甲賀郡8か村の計1万17石余であったが(寛文朱印留),同年9月近江の所領を常陸新治【にいはり】郡に,同年10月常陸河内郡の所領の一部を下総岡田・豊田・相馬3郡に,延宝2年常陸河内郡の所領の一部を下総相馬郡に,享保11年下総豊田・岡田2郡の所領の一部を相馬郡にそれぞれ移されて,最終的には常陸河内郡14か村・信太郡2か村・新治郡11か村,下総相馬郡2か村・岡田郡4か村・豊田郡1か村の計1万2,217石余となる寛永10年領内総検地を実施寛文9年には城中村南原の一角,牛久沼に舌状に突き出た台地上に陣屋を創設天明年間の「中士以上家中覚書」によれば中士以上の藩士は68名で30種の役職についている財政は比較的安定していたといわれるが,安永年間頃から始まった農村荒廃化現象などによって文政末年頃から徐々に窮乏の兆をみせ,天保7年の飢饉によって決定的な打撃を受けた通常の藩収年貢8,000俵余が,天保7年には3,600俵に低落したという藩は同年から財政再建の一環として,領内の豪農を編成して5か年単位の年貢先納賄制を実施したが,翌8年には10代藩主弘毅の婚礼入用金などがかさみ,かえって累積赤字は5,400両余に及んだこの間文化元年には牛久宿助郷一揆が起こったり,天保6~7年には藩領天宝喜村と同高崎・小・六斗蒔3か村の間の入会秣場争論が老中駕籠訴に発展しているのち藩は農馬貸付仕法・干鰯導入・人口増対策・囲米制・荒地開発などの農政改革を展開し,文久3年には累積赤字を天保末年の半分に減少させたという(牛久町史)幕末期,元治元年には天狗党の乱に対し領内各所に出兵し,慶応元年には幕府から毛利家家臣や浪士の禁囚を命じられた慶応4年には新政府から年300両の軍資金を課され,戊辰戦争では関東所々に旧幕府軍鎮圧の派兵を命じられたりして藩存続の途を探った(県史市町村編Ⅲ)明治初年の草高1万901石余(藩制一覧)明治4年の廃藩置県後牛久県となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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