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板橋村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。都賀郡のうち。江戸初期には譜代極小藩である板橋藩の藩庁所在地であった。また日光街道壬生【みぶ】通板橋宿を形成,一里塚が設置された。はじめ板橋藩領,元和3年宇都宮藩領を経て,元和年間に日光神領となる(地誌編輯材料取調書)。板橋藩は,慶長5年関ケ原の戦緒戦の伏見城攻防戦で戦死した松平(大給)近正の遺跡(上野国群馬郡三蔵5,500石)を継いだ松平一生が,ほどなく知行地を当地周辺に移され,加増により1万石を領知して立藩したもので,元和3年三河国西尾へ移されて廃藩となった。村高は,「慶安郷帳」219石(田123石余・畑95石余),「元禄郷帳」834石余,「天保郷帳」849石余,「旧高旧領」835石余。年貢ははじめ金納(三ツ五分成)であったが,元禄13年から米・金両用に改められた(東照宮神領の研究)。ほかに日光神領特有の小物成として,文挟【ふばさみ】・森友村とともに村高の計約1,000石をもって1組を構成し,御馬屋納物として薪90束・苅大豆90連・荒糟10俵・馬草135束などを納めた。天保14年の板橋宿は,宿内の長さ南北3町半,宿高は146石で,地子免許は4,140坪。江戸へ30里29町20間で,各宿までの里程は鹿沼宿へ3里6町,今市宿へ2里,大沢宿へ1里3町,奥州街道森本へ1里半。宿内人別222,家数42,本陣は宿の中ほどに1軒,脇本陣は宿内の上丁と下丁に各1軒,旅籠屋が25軒あった。宿立人馬は13人・13疋で,人馬継問屋は宿の中ほどに1か所あり,問屋1・年寄4・帳付2・馬指1がいた。正徳元年に定められた駄賃・人足賃銭は,今市宿へは荷物1駄78文・乗掛荷人共78文・軽尻馬1疋52文・人足1人40文,大沢宿へは荷物1駄42文・乗掛荷人共42文・軽尻馬1疋28文・人足1人20文,森友へは荷物1駄65文・乗掛荷人共65文・軽尻馬1疋43文・人足1人32文,鹿沼宿へは荷物1駄136文・乗掛荷人共136文・軽尻馬1疋88文・人足1人65文。農業のほか旅籠屋や食物を商う茶店があり,商人も多く,男は宿駅の駄賃稼をし,女は糸をとり機を織った。今市宿までの間に一里塚が1か所あった(壬生通宿村大概帳)。宿中央にある真言宗福生寺には板橋歴代城主の位牌が安置され,境内には東照宮造営副奉行本多正盛の墓がある。本多は同社工事中副奉行の1人山城宮内と口論の末山城を刀の鞘で打ちつけた。このため山城は切腹,本多も東照宮竣工を待って天和3年自害し,福生寺に葬られた。栖克神社のさや堂の扉には「永正元年九月 遊城坊権十郎綱清……」と記され,神社創建のよりどころといわれる。字山サキには星宮神社がある。二宮尊徳によって日光仕法が開始された嘉永6年の家数110・人数555,馬数93,反別162町5反余,荒畑73町6反余,起返地36町3反余(全集)。文久2年の復興は,6戸が2戸に減じた遠下坪に3戸をとりたて,4戸の欠損家庭へ仕法金を下附している。また神領の五大開発の1つとして,陸奥相馬藩の人足も加わり,日陰山に36間のトンネルを開削し,1,119間の用水堀や悪水抜用水堀などの開発が行われた(いまいち市史)。明治4年栃木県に所属。明治初期の「地誌編輯材料取調書」によれば,村の広さは東西25町・南北1里15町,明治9年の地租改正反別は田44町1反余・畑82町3反余・宅地10町1反余・平林224町6反余・林山188町9反余・芝地3町1反余・秣場86町余など,明治10年の戸数145,人口男413・女440,牝馬189,人力車22・荷積車28。また,明治6年小代村知新舎と連合した板橋学校は,同7年独立して1校となり,生徒数男35・女18,ほかに字屋敷には郵便局があった。物産に麻があり,両総・常陸・房州の漁所へ運輸し,明治10年の産額は1,800貫目。農業のほか,仲買商7・職工18・旅店3(同前)。明治14年の戸数152・人口835(県治提要)。明治11年上都賀郡に属し,同22年落合村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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