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榎本(中世)


 戦国期に見える地名。中泉荘のうち。永禄3年11月26日の小山高朝安堵状に「榎本至于本意ニ者,上泉郷之事成敗可被致之候」と見え,高朝は岩上伊勢守に対し榎本を回復した時は上泉郷の成敗を任せると約束している(岩上文書/県史中世2)。この時,榎本は小山氏の手を離れており,これ以前は小山領であったと考えられる。年月日未詳の所領注文案には「中泉庄加納牧野・榎本・山田・冨田」と見えるが(小山文書/県史中世1),本文書は応永年間以降に阿曽沼氏の所領と室町期以降の小山氏の所領を含み込む形で作成されたものである。天正3・4年頃と推定される4月15日の足利義氏印判状写には,「榎本領之内」として野田郷・真弓郷・上飯富郷・本沢郷・小林郷・押切郷・大河嶋郷・与恒郷・渋江郷が記され,これらの諸郷は永禄3年まで古河公方の御料所であったが,その後小山氏に押領されていた(喜連川文書/県史中世2)。もともと小山氏の支配地であったものが,14世紀後半の小山義政の乱後,小山氏の手を離れて古河公方の御料所になったものであろう。また,これら諸郷から戦国期の榎本領は,榎本城を中心として小山市西部の一部と大平町東部を含むものであったことが知られる。永禄4年3月27日の長尾景虎書状によれば,那須資胤が榎本への来陣を約したことに感謝の意を表していることから,榎本は上杉氏の勢力に占領されたことがわかる(那須文書/県史中世2)。しかし天正2・3年頃と推定される5月27日の足利義氏書状(集古文書/県史中世3)や12月25日の北条氏政披露状(岡本文書/小山市史)などによれば,今度は小田原の北条氏政の軍勢の大攻勢にあい榎本城は打ち破られた。この頃榎本城は,北条氏の麾下であった皆川氏や藤岡城の茂呂氏などにも攻撃されている。こうして榎本城は上杉氏,北条氏の大勢力に翻弄されていたが,天正7年と推定される5月25日の佐野宗綱書状によれば,今度は北条氏に対抗する佐竹氏の軍勢に攻められて,「無残所炉被罷成」という状態となった(戸村文書/県史中世3)。天正12年頃再び榎本は北条氏の勢力下にはいったが,同18年には結城晴朝の軍勢に攻められ(武州文書/県史中世4,川連文書/県史中世1),これ以後慶長6年まで結城領となった。なお,天正18年と推定される年月日未詳の北条氏人数覚書や関東八州諸城覚書には江之本・江之本城・江本などと見える(毛利家文書/県史中世4)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7277963