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鹿沼(中世)


 戦国期に見える地名。都賀郡のうち。永正6年の連歌師宗長の紀行文「東路の津登」に「是よりみぶという所に行,横手刑部少輔繁世あひともなはれ連歌あり,亭主中務少輔綱房,かぬまという所に綱房父筑後守綱重の館あり,一宿して,念比のいたはり,筆にも尽しがたし」と見え,宗長は壬生【みぶ】にある壬生綱房の館に赴き連歌興行を催したあと,当地の壬生綱重の館に1泊している(群書18)。大永3年宇都宮忠綱の軍が南下して皆川宗成と合戦になると,壬生綱房は宇都宮勢の側面を突いて鹿沼に進出し,天文元年には鹿沼城を築いたとされている(押原推移録など)が,しかし,「東路の津登」によれば,すでに永正6年までに壬生氏が鹿沼に進出し,綱房の父綱重の館があったことが明らかである。壬生綱重の館は坂田山にあったと思われ,その子綱房が天文元年に御殿山に城を創建したと伝えられる。戦国期に当地は壬生氏の支配下に置かれ,天正2年には鹿沼から壬生氏の兵が宇都宮領の新里郷へ朝懸したため,芳賀高継は同年3月26日これを討取った半田藤右衛門尉・高橋和泉守に感状を与えている(小田部庄右衛門氏所蔵文書/県史中世2,高橋文書/県史中世1)。天正4年壬生綱雄は叔父の徳節斎周長に暗殺されたが,綱雄の子義雄が周長を討ち,義雄はこれ以後鹿沼城を居城として壬生城には城代が置かれた。天正年間に入ると壬生氏は小田原北条氏方となり,宇都宮氏や佐竹氏と戦闘を繰り返した。天正7年2月20日の某感状によれば,鹿沼城が攻め落とされたことが知られ(川津文書/県史中世1),天正年間と推定される年未詳4月22日の宇都宮国綱感状でも,宇都宮氏が鹿沼に攻め入り,鹿沼の町中を焼討ちしたことが記されている(関沢文書・水府史料/県史中世4)。一方,天正12年4月20日には北条氏照が壬生綱雄に佐竹氏の鹿沼出陣が近いことを報じている(小田部庄右衛門氏所蔵文書/県史中世2)。佐竹義重は同年4月下野に出陣し,一方,北条氏直は同月下旬佐野領に移陣し,両者は岩舟山・沼尻で対陣した。同年7月佐竹義重が壬生・鹿沼に進陣したため,北条氏は同年7月18日水海衆50人を手先衆の加勢として小山・壬生へ派遣し,氏照自身の出馬を要請した(下総旧事/埼玉県史)。佐竹氏と北条氏の戦いは,北条氏照の仲介により7月29日誓紙を交換して和睦が成立し,両軍とも撤退した(皆川文書/県史中世1,田島文書/県史中世4)。しかし,翌天正13年4月にも佐竹義重は出陣し,壬生城・鹿沼城・羽生田城を攻撃している(阿保文書/県史中世3)。また,天正16年5月12日にも芳賀高継が幕内淡路守に鹿沼の源作之台における戦功を賞している(栃木県庁採集文書/県史中世4)。天正18年と推定される年月日未詳の北条氏人数覚書に「一,ミふ中務〈ミふの城・かのま・日光山・三ケ所〉千五百騎」と見え(毛利家文書/県史中世4),壬生義綱は北条氏に属していた。このため,天正18年豊臣秀吉から所領を没収され,鹿沼領は結城秀康に与えられた。文禄2年5月21日,結城秀康は長谷部惣大夫に鹿沼村の内300石を充行い(家蔵文書/結城市史),慶長4年3月13日にも秀康が清水長左衛門に鹿沼領美濃村の内300石を充行っている(松平陸奥守家来清水長左衛門文書/譜牒余録上)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7278399