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佐野荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。安蘇郡のうち。当荘域のうち,東限は岩舟町三谷・上岡・下岡付近と考えられる。南部は,下野国と上野国が渡良瀬川で画されていたので,渡良瀬川が南限と考えられる。西部は旗川を隔てて足利荘と接していた。旗川下流の村上・高橋は足利荘となっている(鶏足寺文書・鑁阿寺文書/県史中世1)。村上・高橋は現在旗川の東側にあるが,旗川は以前は村上・高橋の東側を流れていたと思われるので(近代足利市史),佐野荘の西限は旗川となる。北部は不明であるが,葛生町全域が佐野荘に含まれていたと推定され,北限は上野国との境と考えられる。「兵範記」保元2年3月29日条所収の太政官符に「太政官符・後院司 応為院領故左大臣并故前左馬助平忠貞 散位同正弘所領事 一,故左大臣領……下野国壱処 佐野庄」と見え,佐野荘は保元の乱以前に摂関家領荘園として成立していた。保元の乱の時の領主は藤原頼長であったが,頼長はこの乱で戦死し,その所領はほとんど没収され,当荘は妙音院(後院)領となった。寛元2年にはその領有関係をめぐって相論が起こったが,同年8月28日妙音院領であることが確認されている(平戸記寛元2年8月28日条/鎌遺6366)。その後,当荘は正中2年まで妙音院領であることが確かめられる(小曽戸文書/県史中世1)。建武2年7月12日の後醍醐天皇綸旨によれば,佐野荘が西園寺公重の所領として確認されており(西園寺家文書/県史中世4),これ以後当荘は西園寺家領となる。佐野荘の地頭は,藤姓足利氏の一族佐野氏であった。足利有綱の子基綱は佐野氏を称し,佐野荘の地頭と考えられる。佐野氏は鎌倉幕府の御家人として活躍していたが,宝治合戦で三浦方に付き没落した(吾妻鏡)。鎌倉期における当荘内の佐野氏の所領は,小見郷(小曽戸文書/県史中世1)・中郷(武沢文書/県史中世1)・石塚郷(小曽戸文書/県史中世1)・多奈和見郷(武沢文書/県史中世1)などが確認される。石塚郷は南北朝期に北朝方の佐々木高氏に安堵され(佐々木文書/県史中世4),そのため佐野師綱は「押領狼藉」を行い,足利基氏から停止するよう命じられている。同様に当荘内の足黒郷も佐野資綱によって押領されている(同前)。佐野荘には佐野氏だけでなく,佐野氏の一族阿曽沼氏や小野寺氏などの所領が入り組んでいた。観応元年8月20日の阿曽沼秀親譲状によれば,上大賀・下大賀・富地・韮河の地頭は阿曽沼氏であったことがわかる(小山文書/県史中世1)。年月日未詳の所領注文案に「佐野庄之内 上大賀・下大賀・冨地・韮河等地頭軄事」と見える(同前)。本文書は南北朝期に没落したと考えられる阿曽沼氏の所領と室町期以降の小山氏の所領を含み込む形で応永年間以降に作成されたもので,小山氏が阿曽沼氏の遺領であるこれらの地頭職を獲得したかどうかは未詳。その後,永享8年5月26日の海上頼胤寄進状では藤郷(富士郷)の半分が海上頼胤の所領となっている(鶴岡八幡宮文書/県史中世2)。一方,小野寺氏においては,暦応元年6月18日の小野寺通氏譲状に,佐野荘内の小中郷・堀籠郷が所領として記され,さらに宝徳2年5月3日の小野寺朝通言上状では,これに古江郷・青柳郷・并淵郷・三谷郷が加えられている(小野寺文書/県史中世1)。小野寺氏は,小野寺保を中心に支配を広げ,佐野荘内での所領を拡大していったと考えられる。佐野荘において鎌倉末期には,惣領制の動揺と貨幣経済の進展がみられ,土地をめぐる相論や売却があったことが知られる(小曽戸文書・武沢文書/県史中世1)。また南北朝期には,当荘内の佐野河原で合戦があり,関川に楯(館)を築き,古江山で合戦が行われた(落合文書/県史中世3)。また佐野荘において熊野信仰がみられたことは,永正8年3月4日堪順檀那職売券などからうかがえる(米良文書/県史中世4)。佐野荘は戦国期,佐野氏によって所領化されてゆき,永禄年間の佐野昌綱の頃には佐野氏の支配下に入ったものと思われる。現在の葛生町全域,田沼町の旗川以東の地域,当市の大部分,岩舟町西部が荘域に含まれる。なお,佐野の地名は,江戸初期の佐野藩の城下町としての佐野町に継承されるが,慶長19年佐野信吉の改易によって城下町としての佐野の時代は終わり,以後は郷帳類では天明町と小屋町として存続し,この両町で例幣使街道天明宿を構成していく。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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