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天明町(近世)


 江戸期~明治9年の町名。安蘇郡のうち。慶長7年唐沢山城にあった佐野信吉は家康から春日岡城の建設を命ぜられ,街道沿いの当町を中心に城下町を造成したため,一時は佐野城下町の中心をなしたが,同19年佐野信吉が改易されて城下町の時代は終わり,以後は小屋町とともに例幣使街道天明宿を形成し,また特産の鋳物業を中心にした在町として周辺地域の物資の集散地となる。はじめ佐野藩領,慶長19年幕府領,元和2年小山【おやま】藩領,同5年同藩主本多正純の宇都宮転封に伴い宇都宮藩領となり,同8年幕府領,寛永10年からは近江彦根藩領。村高は,「慶安郷帳」2,057石余(田1,605石余・畑452石余),ほかに惣宗寺領5,000石余,「元禄郷帳」2,067石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに2,129石余。「改革組合村」では天明宿組合寄場に属し,天保年間の家数573。江戸後期には町内に中町・常盤町・現石町・本町・蔵之内・大町・大橋町・金屋町・金屋仲町・金井町・金沢町の各町があった。市街は碁盤目状になっており,また寺が市街地のはずれにまとめて置かれており,佐野氏による城下町建設によって形成された町の姿をあらわしている。元和3年駿州久能山から日光山へ改葬の徳川家康の柩が町内の惣宗寺に一泊したため,同寺境内には東照宮が祀られているが,日光東照宮の完成とともに,中山道倉賀野(現群馬県高崎市)から日光へ至る例幣使街道の宿駅の1つとなった。宿高は2,057石余,ほかに加宿として小屋町649石余があり,地子免許はなかった。町並の長さ東西16町48間余,各宿までの里程は,倉賀野宿に15里8町,梁田宿に2里半,犬伏宿に27町,富田宿に3里半。加宿の小屋町も含めた天保14年の宿内人別4,149・家数1,095,本陣1軒は小屋町にあり,旅籠屋は8軒あった。宿建人馬は25人・25疋で,人馬継問屋が宿内大町と加宿小屋町にあり,問屋兼年寄10・馬指2がいた。正徳元年に定められた駄賃・人足賃銭は,富田宿へは荷物1駄144文・乗掛荷人共144文・軽尻馬1疋93文・人足1人70文,犬伏宿へは荷物1駄39文・乗掛荷人共39文・軽尻馬1疋26文・人足1人20文,梁田宿へは荷物1駄104文・乗掛荷人共104文・軽尻馬1疋68文・人足1人50文であった。農業のほか旅籠屋や茶店を営み,男は往還稼,女は木綿を織った。米の津出しは1里離れた佐野川付きの越名・馬門両河岸を利用した(例幣使道宿村大概帳)。例幣使一行の京都出立は4月1日で,17日の大祭に合わせるため天明本陣へは12日に着き,15日に日光に到着した。宿場として発展した当町は,また在町として中世以来の伝統をもつ鋳物や織物(佐野縮),石灰など物資の集散地であった。六斎市が2・7の日に開かれたが,これは犬伏宿の1・6の日,栃木町の3・8の日と重複しないように配慮されたものという。「天命鋳物」と称された当町の鋳物業は,「西の芦屋(福岡県)か東の天明か」といわれた茶の湯釜を筆頭に,室町期から梵鐘・灯籠・鰐口など社寺の什物,日用の鍋・釜などの名品として東国を中心として京都にまで知られた特産品であった。江戸期以前には当地周辺に散在していたらしいが,慶長7年からの佐野信吉による城下町建設に伴って当町の金屋町が鋳物師の居住地と定められ,後世まで集住した。慶長7年に金屋町に集められた鋳物師は19姓の70名という記録があり,元文元年の「諸国鋳物師控帳」に天明鋳物師が10姓の17名とあり,翌2年の記録では鍋職なども含めて66名が見えている。文政11年の全国の「鋳物師名前帳」には全国の鋳物師を統率していた京都真継家支配の鋳物師が500名ほど記されているが,下野国の23名は関東では武蔵国(川口を中心とする)の21名とともに他を圧倒し,越中・越後・近江・若狭の国々に次いで有数の鋳物師数を示しており,また当町の鋳物師は下野国23名のうち21名で,越後国大窪村(新潟県柏崎市)46名,越中国高岡町(富山県高岡市)45名,若狭国遠敷郡金屋町(福井県)25名に次ぐ全国第4位の鋳物師町をなしていた。「県史通史編」4では,慶長年間の70名は多すぎるとし,近世の天明鋳物師仲間は30名前後で終始したと考えられるとしている。詳細は不明だが,銅は常陸国・武蔵国などから渡良瀬川水運を利用して運び,砂鉄は当地周辺や常陸のものを利用したらしく,足尾の銅を使用したという記録はないという。鋳物製品の生産は17世紀後半以後に増大したが,特に有名な作品(合作)では慶長19年から豊臣秀頼によって復興されようとした京都方広寺大仏殿の梵鐘があり,この梵鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていたことが契機で豊臣氏が滅亡したことは広く知られている。鎮守の星宮神社には天和3年江戸の村上吉重によって奉納されたわが国最古の算額があり,奉納者は郷土出身の学者といわれる。寺院には,慶長7年春日岡城建設のため春日岡(現城山公園)から当町の金井町に移された天台宗春日岡山惣宗寺が代表的なもので,寺領50石を与えられていた。厄除けの寺としても有名で,その山門は春日岡城の城門とのいい伝えがある。また,曹洞宗興福寺には,千葉周作と星宮神社境内で試合をしたという幕末10剣師の1人秋山要助の墓がある。ほかに日蓮宗妙音寺,新義真言宗観音寺,時宗涅槃寺などがある。明治4年栃木県に所属。学校は同6年隣接の小屋町と合同で旧本陣・妙音寺・金胎寺の3か所に各々学校を設け,同年5月統合して共和学舎とした。同8年の生徒数男283・女182。明治9年佐野町の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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