富田郷(中世)

室町期~戦国期に見える郷名。中泉荘のうち。応永24年7月24日の某書下に「小山庄内来本郷并西御庄内富田郷・同庄下皆河郷等事,可被知行者也」と見え,小山満泰が某(足利持氏か)から当郷などの知行を認められている(松平基則氏所蔵文書/県史中世2)。応永年間以降に作成されたと推定される年月日未詳の所領注文案には「中泉庄加納牧野・榎本・山田・冨田」と見え,当郷は応永年間以降小山氏の支配下にあった(小山文書/県史中世1)。下って,戦国期の年未詳2月8日の小山秀綱書状写によれば,小山秀綱は富田に在陣し,上杉氏と戦うため佐野方面に出陣した芳賀高継に同陣しようとしていた(栃木県庁採集文書/小山市史)。また,江戸初期と推定される年月日未詳の野村高貞覚書写に「皆川江働之時,富田大中寺之下にて,金子十兵衛討死に及候所を,拙者馬を入,十兵衛を助ケ申候事」と見え,戦国期に大中寺付近で戦いが行われたことが知られる(武州文書/県史中世4)。天正18年と推定される年月日未詳の北条氏人数覚書に「一,皆川山城守〈此皆川山城守ハ,先日此方へ走入申候,下野皆川城 とミた とちき城 なんま〉四ケ所 千騎」と見え(毛利家文書/県史中世4),皆川広照は北条氏方であったが,豊臣秀吉の小田原攻めには徳川家康を通じて秀吉に降った。慶長17年8月6日の関東八州真言宗諸寺連判留書案には「〈野州富田九月廿三日申刻〉玉正寺」と見え,当地の玉正寺も同年9月23日に署名している(醍醐寺文書/県史中世4)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7279912 |