船生村(近世)

江戸期~明治22年の村名。塩谷郡のうち。「慶安郷帳」「元禄郷帳」では舟生村と記される。はじめ宇都宮藩領,寛延3年から下総佐倉藩領,明和元年からは再び宇都宮藩領。村高は,「慶安郷帳」1,863石余(田260石余・畑1,603石余),「元禄郷帳」2,452石余,「天保郷帳」2,572石余,「旧高旧領」では西船生・東船生2か村の名が見え,西船生村1,332石余・東船生村1,274石余。「改革組合村」では玉生村組合寄場に属し,天保年間の家数161。南部を東西に街道が通り,これを地元では日光街道あるいは日光北街道と呼び,大田原方面から矢板―玉生―船生―大渡―今市を経て日光に至る。日光への近道として主に奥州の旅客が利用し,奥州諸大名の参勤交代の際にもこの道を経て日光へ参詣して江戸へ上ったり帰途に参拝するために利用された。字船場から鬼怒川を渡り,大渡―轟―今市という間道もある。また日光への街道を西へ進むと高徳―大原―藤原を経て三依郷から会津方面,さらには北陸方面へ通じる。東へは玉生から大宮を経て鬼怒川最上流の河岸である氏家町の阿久津河岸へ通じている。このルートによって,会津藩の廻米をはじめ,田島(福島県)商圏から江戸方面への盛んな商品流通があった。船生宿は交差する周辺交通網の要衝にあったため宿駅として栄え,荷物の運送集散も多く経済の中心地であった。字富沢に新義真言宗智山派補陀洛山青遷院観音寺があり,承和年中に実恵大徳の開基と伝える。享和年間に焼失し,のち再建したともいう。神社は字宮内に船生郷の総鎮守岩戸別神社があり,承和年間頃鳥屋の越の山上に天手力雄命を祀り,享徳元年現在地に遷宮したといわれる。船生宿に船生神社がある。安政4年地内の高徳村境近くの鬼怒川に西船生河岸の開業が正式認可される。鬼怒川最上流の河岸で,施設・持船・免許などの各方面にわたり宇都宮藩家老戸田忠至の指導と田島圏商人層の援助,さらには藤原・大原・高徳など会津西街道宿駅による運動が総合的に結実した結果である(斎藤家文書)。河岸の川船道の浚渫には,延べ2,491人の人足が動員されたが,この中には会津西街道筋の藤原・大原・高徳・高原新田4宿駅からの150人が含まれる(藤原町星家文書)。幕末期に鬼怒川上流域に勃興する売木人勢力とこうした河岸開設運動が結びついたことは,官許的な既存の阿久津河岸などに対する優位性を確立した動きととらえられる(県史近世4)。西船生河岸で群を抜くものは,宇都宮藩国産方役人も勤める当村名主・当河岸世話人の斎藤家が集積して江戸深川の材木商に直接納めた木材であり,その量は安政5年から文久元年までの間だけでも栗・杉・松・桜などの角物約4,400本,板類約2万3,800束を数える。また木炭も同家の扱いによるもので,上平河岸から宇都宮城下へ運び,また鬼怒川下流の石井・中村両河岸へ運ばれたが,安政4年分のみで約2,200俵であった(斎藤家文書)。これらは宇都宮藩の国産品であった。このほか農民らの商品としては会津田島圏を筆頭に今市・日光から出荷される鞘木・塗物・板類・桶子・下駄類など多種類の林産物も数多い(同前)。しかし文久年間以降には衰退していく。安政3年,名主平作は藩の融資によって字新田・新谷・清水・宿に通じる用水路の開削を行い,2代平作が志を継ぎ完成させ,安政堀と命名したが,村民は平作堀と称した(塩谷郡地誌)。高徳村境の遅沢南方では戊辰戦争時,攻める薩長土肥の諸藩と宇都宮藩の官軍が高徳方面に陣し,遅沢川向いの丸山に村民4人を見張りに立てた。会津藩兵による4人の斬殺を含む激戦が繰り返されたが,会津藩兵は撃退された(西古屋招魂墓)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同7年観音寺を仮校舎とする立身館が開校,同16年船生小学校と改称。同年道谷原に船生西校が新設される。明治22年船生村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280641 |