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皆川城内村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。都賀郡のうち。「慶安郷帳」「元禄郷帳」では本皆川村と見え,「天保郷帳」では「古は本皆川村」と注記される。元和元年皆川藩領,正保2年幕府領,慶安年間頃から武蔵岩槻藩領,天和元年再び幕府領,元禄12年皆川藩領,享保7年からは武蔵金沢藩領。村高は,「慶安郷帳」1,690石余(田666石余・畑805石余・山銭55石余・延石164石余),ほかに傑岑寺領50石余・持明院領10石余・東宮之宮領5石余・金剛院領3石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに2,340石余,「旧高旧領」では2,286石余。「改革組合村」では栃木町組合寄場に属し,天保年間の家数146。金沢藩の代官所は字上馬場に置かれていた(栃木郷土史)。代官所南の字宿は小さな宿場を形成し,江戸期から毎月2の日と7の日にじょうま(丈間・畳間と書き,皮麻を縦に,ワラを横に織るむしろの一種)の市が開かれていた。字宿には醸造業を営む幸嶋家があり,文久元年には隣村6か村が申し合わせて金子および米の借用を迫り,幸嶋家は400両と入用なものを貸し出す事件が起きた。扇央にある字松原は,江戸初期に皆川氏の家臣らにより開発されたと伝えられる。当村の大庄屋は幸嶋家がつとめた。神社は,永野川右岸に接した残丘上に武甕槌命・天児屋根命を祀る東宮神社があり,天喜元年源義家により勧請されたといわれ,のち皆川氏の祈願所となるが,同氏の衰微とともに荒廃,のち寛永10年に皆川氏により改築され,社領25石を寄進,家光からも朱印地5石を賜わった(旧県史)。春の大祭(明治5年以前は陰暦4月8日,のち5月13・14日,現在は5月5日)には神馬が奉納され,神社後の馬場で,流鏑馬の儀式とともに,安政年間から農馬による競馬が催される。字上馬場に慈眼山護国院金剛寺があり,寺伝によると創建当時は天台宗,天文年間には臨済宗となり,寛永6年からは曹洞宗となったといい,皆川家歴代の廟所で,天正19年家康から朱印高3石を与えられた。皆川城跡の南に当たる字森山には曹洞宗建幢山法光院傑岑寺があり,天文23年皆川俊宗を開基,天嶺呑補和尚を開山として創建されたといい,第4代宗寅和尚は今川義元の弟で,徳川家康からの書状も伝えられている。のち天正19年家康により朱印50石が寄付された(旧県史)。また,字荒宿,二荒山中腹に真言宗嵯峨大覚寺末派別峯山持明院光厳寺があり,天正19年家康から朱印10石を与えられたと伝える。ほかに字宿に浄土宗家康山徳蓮院照光寺がある。明治4年栃木県に所属。「地誌編輯材料取調書」によれば,同8年の戸数210・人口1,235,馬57,人力車11・荷車10。同9年1月現在の物産は畳間4,720円・大麻5,000円・藍葉1,200円,清酒2,000円など。肥地が多く,痩地は少ない土地ではあるが,場所により「旱撈ノ憂少シクアリ」という。民業では男は農を業とし,女は農暇に畳間織り又は機織を業とし,酒造1戸・旅店2戸・質屋5戸・醤油屋1戸・荒物屋2戸,大工6人・屋根葺3人・泥工1人・木挽4人。明治6年照光寺を仮用して皆川学舎を開校,同7年の教員数4,生徒数男93・女12。郵便局は字上馬場の村住士族町田延世の私宅を仮用して開設,同8年1月現在の書信数200。同9年東宮神社境内に禊教の教会所が設置,惟神教皆川分社と称された。同21年永野川に大皆川村と結ぶ対嶺橋が建設される。経費の大部分は寄付でまかなわれた(栃木市史)。明治11年下都賀郡に属し,同22年皆川村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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