山河郷(中世)

南北朝期~室町期に見せる郷名。足利荘のうち。康暦2年4月10日付の安芸守某打渡状(小川文書/県史中世4)に「足利庄山河郷内観音堂俗別当職・散在免田畠等事」と見える。この観音堂の後身が足利市山川町の観音寺と推定され,この堂の俗別当職および免田畠は給主進士氏が掌握していた(近代足利市史)。なお,同寺境内からは永仁6年銘釈迦一尊式の板碑と常滑の骨壷破片が出土している。さらに応永13年4月14日付の室町幕府管領斯波義教奉書(猪熊信男氏所蔵文書/県史中世4)によれば,進士九郎左衛門尉氏行は足利庄山河郷内観音堂俗別当職・散在免田畠などを三戸次郎が競望していることを申し立てているが,管領斯波義教はこの三戸氏の行為を停止させ,進士氏行の知行に任せるべきことを上杉憲定に命じている。また,応永24年11月3日付の室町幕府管領細川満元施行状(同前)によって山河郷の給主進士九郎左衛門尉重行の存在が判明する。下って,天正19年11月に徳川家康は長林寺に山川村のうち20石を寄進している(御朱印留/県史中世4)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281080 |