100辞書・辞典一括検索

JLogos

44

漆原村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ白井藩領,元和5年高崎藩領,元禄8年幕府領代官平岡氏支配,同9年米倉氏領(下野【しもつけ】皆川藩領),同11年旗本高木氏・松田氏・本多氏・向井氏の4給,同15年幕府領代官下島氏支配,宝永2年同代官川原氏支配,同6年旗本松平氏・本多氏・萩原氏・保々氏の4給,延享4年前橋藩領。村高は「寛文郷帳」1,150石余うち田方705石余・畑方445石余,「元禄郷帳」1,279石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,163石余。また「駒寄村史」によれば,村高1,150石余,反別は田47町余・畑46町余とある。当村に賦課された諸役のなかには,佐渡奉行街道を奉行が通行のたびごとに馬10頭と人足を差し出す役があり,また天狗岩用水取入口管理人足の夫役もあった。名主役には,宝永~享保年間頃から斉藤与八が就き,代々世襲して与八を襲名したが,文化年間中頃から桑原権右衛門に代わり,桑原家も権右衛門を代々名乗って勤めた。その後,万延~文久年間になって名主は交替制となり,落合久左衛門,元治~慶応年間から明治維新にかけて柴崎佐橘が勤めた。なお文政12年の諸職人元帳によると,村内には大工4・屋根葺1・板割1・木挽1・畳刺1・桶師3がいた(前橋市史)。水利は漆原用水。享保6年利根川の洪水により同用水堰口が大破,この普請をめぐって半田村と紛争を起こし,半田村は自費で普請,同村だけ用水を利用し,当村は水田耕作ができないまま畑作に切り替えた。半田村との紛争は数十年にわたり,解決を見ないままついに天明3年浅間山の噴火による洪水をむかえた。この時,沿岸諸村の耕地への被害や民家流失は甚大であったが,漆原用水も長さ2里余・幅5尺・深さ1丈5尺ほど泥焼石に埋まった。文政12年になって渋川村落合から新堰を開削した。このほか当村では利用しないが,慶長9年総社城主秋元長朝開設の天狗岩用水の取入口もある。なお利根川の流路について,「駒寄村郷土誌」によれば,応永年間頃岩神の東を流れていた利根川は,のち洪水によって半田村から当村東方へ掘られた用水堰が本流となり,さらに天明3年浅間山噴火の際流路を変じて川原島の東方を流れるようになり,慶応3年の洪水で川原島の西が本流となったと伝えている。この川原島については,寛文年間頃川原島新田が開発され,享保年間頃利根川の洪水により当村と川原島との境が断たれ,そこに支流を生じたため分村し,明治4年当村と再合併したが,同11年分村したという(郡村誌)。騒動としては,元禄6年御年貢林をめぐる出入が発生している。これは当村や八木原村・下野田村の村人が当地域に設定されていた御年貢林内の松木を切ったことから,有馬村との出入となり,幕府評定所の仲裁を経て内済となった。なお天明元年上州絹一揆の時には,前橋陣屋の命により名主1人・組頭2人・村民14人が警備のため総社町に出動している。鎮守は地内8字に1社ずっ,瀬来稲荷宮・根小屋白髪宮・西原諏訪社・茶ノ木稲荷宮・万蔵寺北野社・大町大山祇社・上新田諏訪社・上ノ原神明宮がある。寺院は,比叡山直末長松寺,西光寺があり,のち廃寺となった真福寺もあった。寺子屋教育は弘化~嘉永年間頃斎藤岩之丞,文化~文政年間頃和算学者木暮三右衛門父子,安政~明治初年桑原亀之丞が行っていた。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。地内中央に明治7年設立の小学校があり,生徒数男35・女6。民業は男で農桑業に従事する者224戸,女で養蚕紡織を業とする者250とある。同22年駒寄村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7281770