100辞書・辞典一括検索

JLogos

72

大戸村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。吾妻郡のうち。天正18年豊臣秀吉の命で大戸城に岡氏が封じられ,慶長20年除封(吾妻郡城塁史),のち旗本松平氏領,元和元年旗本根津氏領,元和4年幕府領。寛永20年萩生村・本宿を分村したという(郡村誌)。村高は,「寛文郷帳」で3か村合わせて1,120石余うち田方551石余・畑方568石余,貞享3年の再検地で699石余(吾妻郡誌),「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。寛政6年の宗門帳によると,戸数202・人数931。安永7年の年貢割付状では納合米62石余・永51貫余(坂上村誌)。天保8年の納合は米77石余・永63貫余。助郷は,時に応じて中山道軽井沢宿・坂本宿などに指定された。文久元年の和宮降嫁の際には人足150・馬12で勤めた。鎮守は文永元年近江国白髪神を勧請し建立した畔宇治大明神(現畔宇治神社)で石灯籠は高遠石工の佳品である。古賀良神社社殿の石祠も安永2年の高遠石工の作で幅6尺余。原町善導寺末浄土宗鎮西派華庭山大運寺は古刹で,加部安の菩提寺。吾妻三十三所観音第8番札所の仙人岩窟があり,延宝6年の石像十八羅漢像がある。小正月の習俗は古い形式が残り,現在も1月14日夜悪魔払いの獅子や鳥追いを行っている。村内に中山道の脇往還信州(草津)街道・大戸通りの宿場があり,交通の要地で,飯山・須坂・松代3藩の城米,信州・西吾妻の物資,善光寺参詣や草津入湯客の往来で繁忙した。天保8年の宿絵図(大戸区有文書)によると,戸数68,文政~天保年間の「諸業高名録」に当宿の問屋・叶屋・吉野屋などが掲載されている。大戸関所は寛永8年に本宿村から移り,中山道の裏固めとして設置された。関吏は当村の一場・加部両氏,本宿村の堀口氏,萩生村の田中氏の4人。廃関は明治4年。関所破りで処刑された者は8件11人(同前),嘉永3年磔刑の国定忠治が有名である。関所付村で,将軍の上洛や日光社参などの非常時警戒の時には加番人足や番小屋の固め人足で詰め,普請の際には夫役などの負担があった。加部安こと加部安左衛門は「一加部,二佐羽,三鈴木」と呼ばれた上州一の分限者で,江戸中期の7代重実・8代光重の時が全盛で,明治7年に財産整理。戦国期に土着して農業を営み,のちに商業・酒造業・金融業など多角経営で発展した。また天明3年の浅間山噴火の際には窮民を救済し,足尾銅山の経営に参加,川浦山御用材を伐り出し,開港を機に横浜へ進出するなど活躍した。屋敷跡の石垣や石組み井戸など加部安左衛門関係遺跡は,昭和58年町史跡に指定されている。寛文10~11年川南村12か村と榛名山北麓の吾妻南山をめぐって争われ,同11年敗訴。また宝永8年には萩生村が関所囲地を侵したとして争ったが敗訴。ほかに承応・正徳・寛政年間にも山境論が起きている(坂上村誌)。幕末の改革組合村高帳によれば,当村ほか43か村組合の寄場村となっており,高699石余,家数155。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治4年戸数156・人口652と宿場が衰えて減少。同22年坂上村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7281894