近藤村(近世)

江戸期~明治22年の村名。邑楽【おうら】郡のうち。正徳年間成島村から分村して成立。はじめ青柳藩領,のち館林藩領,享保19年幕府領,元文5年から館林藩領。村名は「旧高旧領」に見え,村高153石余。安政2年の封内経界図誌(館林市立第一資料館蔵文書)によれば,高153石余・反別28町余,うち田が高108石余・反別5町余,畑が高45石余・反別13町余,家数4,人数21うち男12・女9。夫役として,館林城下近隣37か村と同様に館林城の濠の藻をすくう仕事や土居の草刈り役を勤めた。菅原道真を祭神とする菅原神社の小祠がある。山林の多い村で,適作は松・ナラやソバ・アワ,副業として男は薪取り・縄ない,女は機織を行った。幕末の改革組合村高帳では,「近藤分」と見え,館林町寄場組合に属し,高153石余,家数4。明治4年館林県,栃木県を経て,同9年群馬県に所属。同11年の反別19町余,戸数5・人口22(郡制分画戸口反別調)。同22年六郷村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7282797 |