100辞書・辞典一括検索

JLogos

29

白井村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ白井藩領,のち幕府領。幕府代官は寛永2年岡上九左衛門景純,同10年岡上甚右衛門景親,同20年岡上半助などで,幕末に入ると川上金吾助・伊奈半左衛門など。村高は「寛文郷帳」で畑方858石,「元禄郷帳」1,051石余,「天保郷帳」1,073石余,「旧高旧領」1,024石余。天正10年の制札「禁制白井村」の白井村は白井領のうちで,現在の子持村全域を指すものと思われる。慶長6年の文書に「下白井之郷」の呼称が見え,これが白井村のことであるから上白井之郷(上白井村),中之郷(中郷村)の存在が推測できる。天正18年徳川家康の関東入府後,本多広孝・康重父子が当地へ入封した。寛永元年白井藩主本多紀貞に嗣子がなくて廃城となる。廃城後城跡には代官の陣屋も設けられたが,帰農した者たちによって田畑もつくられた。現在,本丸・二の丸・三の丸・北郭・笹郭・南郭に,三日月堀をはじめ大小の堀(空堀)と北遠構・東遠構も残り,古城跡をしのぶことができる。寛永11年の名寄帳(金井家文書)によって,西町・東町・町浦とある程度の町割を知ることができる。まもなく上ノ町・中町・下ノ町と八軒町・新田町・南町も整備されている。南北に走る道幅は北端で8.70m,南端で8.30m,中央の最高幅員は20.15m。真中には悪水を処理した溝(現在の白井堰)があり,町の長さは945m。白井城時代,西の松原屋敷から町へ入る通路は中ノ坂1つで,利根川を渡って八崎村方面に通じていた。その後市場町となって,北遠構に沿ってあった片原小路を上ノ坂として拡張し,源空寺前の観音坂を整備し,北郭のあわ堀近くを下ノ坂として,町へ入る便を図っている。町の北と南の入口には城戸があり,東遠構は夜盗道となっていた。町中央の道しるべは,北沼田,西越後・草津,南日光・江戸と刻まれている。町の地割形態は南北に走る主要道路に直角,短冊形に設定されていて,東側は長く,西側は城構の役目をした段丘の制約で短い。地割は3間幅から最高36間幅までで5・6・7間幅が多い。地割筆数は,両側で100筆を超えている。利根川の河岸段丘にあるため地下水が低く,個人所有の井戸は極めて数が少なく,飲料水の確保に苦心した。共同井戸では上ノ町の薬師井が最も古く,中町の延命井,下ノ町の羅漢水の順となっている。明治期になってから井戸無尽の方法で,溝に沿って井戸が掘られた。元禄13年の村明細帳(高橋家文書/県史資料編13)によれば,すべて畑方で高971石余,反別82町5反余,家数本百姓120・水呑百姓30,人数749,馬130,子持山など4か所の入会地があり馬草・薪を刈っている。さらに中山村山については当村ほか4か村が金1分で7枚の草札を購入して刈り取った。畑作は桑・大麦・小麦・大豆・小豆・芋・粟・稗・黍・蕎麦などで,女は布・木綿・絹を生産した。酒造り家が5軒あり,「伝馬宿ニ而ハ無御座候」と見える。名主はおらず,組頭6組12人が年替りで勤めた。また「当村市場ニ而御座候」とあり,男は耕作の合間に少々の商いをし,馬草・薪・万石物・塩・茶・木綿・麻布などが商われ,六斎市で沼田・中之条・渋川・勢多西部方面からの住民・商人の往来があり,白井へ行けばなんでも買えるといわれたほど繁盛を極めた。幕末の改革組合村高帳によれば,当村ほか20か村組合の寄場村となっており,高971石余,家数160。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。明治6年白井小学校が当村西の横町に開設された。利根川に架橋され,樽村に通じていた大宮橋は,長さ42間(約84m)・幅2間(約3.6m)の木製橋であった。同22年長尾村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7283232