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惣社町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。群馬郡のうち。総社町とも書く。はじめ総社藩領,寛永10年高崎藩領,旗本安藤氏領を経て,宝永7年幕府領,寛保2年沼田藩領,延享4年から前橋藩領。検地は慶長12年に実施された記録があるが,詳細は不明。その後,寛永12年・寛文3年・寛保13年に行われている。村高は,「寛文郷帳」で1,627石余うち田方618石余・畑方1,009石余,「元禄郷帳」1,063石余,「天保郷帳」1,170石余,「旧高旧領」も同高。慶長6年秋元長朝は群馬郡のうち1万石を与えられ,惣社蒼海城に入ったが,城が相当に破損していたため,勝山の地に新城と城下町づくりを計画し,地侍や有力農民を督励して築城とともに町割りを行った。総社城は上野の旧勝山城の一部をとりこみ,利根川の断崖を利用して本丸を築き,西側には給人屋敷と呼ぶ侍屋敷を設け,その外側に城下町を形成した。天狗岩用水を西の外濠とし,町の南北には木戸を置いた。旧蒼海城域の殿小路・阿波島・(粟島)・鍛冶町・巣烏分の住民を新城下に引移らせ,慶長12年の検地に伴い,総社町とし,古来の惣社の地を元惣社村とした。また旧来の塊村・大屋敷村の住民の一部を移して新田町とし,また昌楽寺廻り村をとりこみ分郷とした。領主は慶長7年3月蒼海城に入封している。同12年に完成した城下町は,寛永12年の検地帳によれば,全長11町30間(1,253m),短冊形に地割りされ,道路の中央と屋敷裏には水路を設け,屋敷地はおよそ間口5間・奥行35~40間であった。城下町の屋敷数は約178戸を数える。また寛永12年の惣社領之内検地帳(前橋市史6)には,植野村・高井村・昌楽寺廻り・大屋敷・稲荷新田村・巣烏分・七ツ石分・北原分・給人屋敷分・小姓足軽町・植野町屋敷などが記載されており,田39町3反余・畑268町1反余,名寄者数930人,屋敷数279となっている。秋元長朝は,慶長9年町づくりの際伊勢神宮の遥拝殿である伊勢殿を粟島町につくっている。外宮正殿は天明8年に遷座,寛政5年遥拝殿を内宮正殿として建築している。総じて神明宮とし,総社町の総鎮守となっている。また長朝は父景朝(元景)の冥福を祈願するため気雲山元景寺を建立した。同寺は,寛永3年に徳川秀忠から20石を朱印地として与えられ,境内竹木諸役免除などの特権を付せられている。秋元山江月院光巌寺は,慶長12年元総社村徳蔵寺の菩提所を移したもので,寺名は長朝の母の法号光巌院からとった。寛永3年に30石の朱印地を賜わっている。光巌寺境内秋元家霊廟前には,安永5年総社藩主秋元氏の農政の徳をたたえ,「力田遺愛碑」を百姓らが建立した。宝永6年5月から6月にかけて,総社5,000石を知行する旗本安藤信富の悪政に対して知行地内百姓代表28人が連署訴訟にもちこんだ。この直訴の原因は,前領主秋元氏の時よりも年貢率が2倍余になり,また殿様無尽と称する頼母子講を作り,大小の百姓から300両の金を取りあげ,撫育を省みなかったことという。そもそも総社町は慶長6年佐渡街道(三国道)の一宿としても形成され,同14年には幕府道中奉行の管下ともなり,特に安藤氏改易後は陣屋が置かれ,城下町から新しく街道の町として発展した。総社宿としては,巣烏・鍛冶町・粟島・新田を含み,北木戸から南木戸まで全長11町30間,昭和10年片側に寄せるまでは用水が宿の中央を流れており宿場町の防火と,宿場継送りの馬の給水に役立っていた。本陣と問屋も置かれ,高山彦九郎も安永2年に宿泊している。また国学者奈佐勝皐も天明6年4月総社を訪れ,「山吹日記」に町の様子を記している。助郷は近村の植野村・高井村・青梨子村で,佐渡奉行・越後国内の大名が通行する節のみであった。駄賃は1里40文の取りきめであった。元文3年三国道が高崎を経由し,金古宿・渋川宿へ荷継ぎされるようになり,宿場荷物争いが起こった。旧道の八木原村・大久保村・総社町の問屋・百姓代は,渋川宿・金古宿を相手どって訴訟を起こしたが,公儀の道筋であるということで敗訴におわり,過料20貫文をとられている。総社宿の機能は高崎の発展とともに衰えていった。寛政12年には陸上交通の窮状打開のため,総社河岸を計画,渋川村と協調して利根川利用の水上荷物輸送をねらったが,倉賀野河岸などの反対にあい,成功しなかった。これは,元和2年に設置された大渡番所(関所)が総社町大渡と前橋岩神町大渡間の諸荷物・通し船を厳重に取締る役目を持っていたことにもよると考えられる。大渡の渡しは船渡しであり,貞享3年の定めでは奉行人のほか歩行5文,人馬代9文,常水の節は45人,水増の節は10人ほどの乗船者を規定している(前橋風土記/県史料集1)。安政5年船渡しの危険が多いことから,前橋藩では横野村三原田の大工永井長次郎に設計させ,持送り式架橋の万代橋を架橋したが,文久3年に流失,その後は総社橋(船橋)でかろうじて東西の交通が行われた。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年西群馬郡に所属。明治4年野馬塚村,同6年小河原分村,同9年大屋敷村を合併。また同時期に石倉分村も合併した。同15年製糸場昇成社が設立され,社員6名で193貫の製糸量を生産した。同22年総社町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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