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館林(中世)


 戦国期に見える地名。邑楽【おうら】郡佐貫荘のうち,立林とも書く。「鎌倉大草紙」巻2によれば,応永23年の上杉禅秀の乱の際,新田義宗の子が還俗して新田六郎と称し「館林辺へ打出」新田一族をまとめて持氏に味方したという(埼玉県史資料編8)。文明3年と推定される年未詳5月1日の足利成氏書状(高文書/県史資料編7)に「相籠立林候之条尤候」とある。関東では享徳3年に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害して以降,二派に分かれて戦乱が展開されていたが,この書状で成氏は高師久に立林要害にたて籠ることを命じた。しかし,5月28日には上杉顕定が「去廿三日上州佐貫庄立林要害中城攻落時」の戦功についての感状を豊島泰昭・同泰景・大熊伊賀守にそれぞれ与えており(豊島宮城文書/県史資料編7,記録御用所本古文書),ほどなく落城したものとみられる。「松陰私語」第2(県史資料編7)によると,館林城主は舞木氏の被官赤井文三・文六であり,上杉方の長尾景信父子・太田道灌らが開城降伏させたという。赤井氏はその後は上杉方に降り,舞木氏に代わってこの地方を支配した。道興准后の東国回国を記した「廻国雑記」には「三月二日,とね川,青柳,さぬきの庄,館林,ちづかうへのの宿などうち過て,佐野にてよめる」とあり,文明19年の3月2日に利根川を越えて当地を訪れている(県史資料編7)。下って,永正15年道者日記(同前)には当地に居住する者として「梅沢はやとう(隼人)」と「てしかハらあふみ(勅使河原近江)」の2名が見える。永禄3年8月,越後の長尾景虎(上杉輝虎または謙信)は上杉憲政の要請を容れて関東に出兵し,小田原北条氏を攻めた。この時上野【こうずけ】の諸将は上杉方となったが,当地の赤井氏はこれに加わらず,小田原北条氏に味方した。永禄5年と推定される年未詳正月6日の上杉輝虎判物写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/同前)によれば,富岡重朝に横瀬成繁が「館林為後詰」として移動するので,重朝も同心するよう命じているように上杉軍は館林城を攻め,同年と推定される年未詳2月28日の須田栄定書状(上杉家文書/同前)に「去九日,立林之地御馬をよせられ候……赤文(赤井文六照康)去十七日ニ出城」とあり,2月17日に赤井文六を降伏開城させたことが知られる。館林の処置については同年と推定される年未詳2月27日の上杉輝虎書状写(聴濤閣集古文書/同前)に「たちはやしそなゑけんこにゆひ付,たしまのかミにあつけ置候」とあり,輝虎は足利城主長尾景長に預け置いている。永禄5年卯月5日の長尾景長充行状(織田文書/同前)に「今度当地館林移候上」とあり,景長は同年の4月以前に館林に移ったと考えられ,翌年2月28日には足利鑁阿寺に対して立願の趣が叶ったとして青銅10貫を寄進して領中安全の祈祷を命じている(鑁阿寺文書/同前)。永禄6年には上杉に対立していた武田・北条の軍が当地に迫っており,同年と推定される年未詳閏12月11日の上杉輝虎書状(保坂潤治氏所蔵文書/同前)では,足利・館林の備えについて金山城の横瀬成繁に加勢を命じている。永禄7年と推定される年未詳正月24日の上杉輝虎書状写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/同前)では,富岡重朝に対して,「従館林中越候」すなわち当地の長尾景長からの知らせで佐野宝衍が小田原北条氏方に寝返ったことを知り,佐野攻撃に出馬することを伝え,同年と推定される年未詳2月1日の上杉輝虎判物写(同前)で重朝の出馬を要請している。由良・富岡・長尾氏の所領は入り組んでいたとみえ,永禄10年4月20日には由良氏と紛争のあった佐貫荘上郷五郷が小田原北条氏によって富岡氏に安堵されている(原文書/県史資料編7)。これで明らかなように永禄9年頃には長尾氏は由良氏とともに上杉氏を離れ小田原北条氏に服している。長尾氏と由良氏の結びつきは由良国繁の次男熊寿が景長女に入婿し,のちに景長の跡を継いで顕長と名乗ったことから強固となり,両氏の連繋によって東上州に一大勢力が築かれた。「長楽寺永禄日記」永禄8年2月10日条(長楽寺所蔵/県史資料編5)によれば,熊寿は永禄8年には館林に移っている。永禄9年と推定される年未詳2月21日の小山良舜(秀綱)書状(上杉家文書/新潟県史資料編3)によれば,常陸小田城を落とした上杉輝虎は,下総攻めのため当地に至ったことがわかる。永禄13年に輝虎は越山して下野【しもつけ】の佐野氏を攻めているが,この時武蔵羽生城主広田出雲守がこれに馳せ参じ戦功をあげたことを賞し佐野領・足利領を除く「館林城知行共」を充行っている(歴代古案/県史資料編7)。しかしこの年には越相講和が成立し,上杉氏と小田原北条氏の戦いは一時止ったが,この同盟も元亀2年に小田原北条氏が武田氏と同盟を復活させたことによって崩壊した。天正2年には謙信は春秋2度にわたり関東に進出し東上州で由良氏と戦っている。天正2年と推定される年未詳5月30日の上杉謙信書状(田中文書/県史資料編7)に「渡良瀬川ヨリ新田・足利へ懸ル用水候,是ヲ切落候得者,新田・館林・足利迄成亡郷由申候間,足利・新田之間,金井宿之際ニ陣取,堰四ツ切落」とあるように,この時謙信は敵方に打撃を与えるために用水の堰を切り落とし,同年と推定される霜月24日の上杉謙信書状(東京大学史料編纂所所蔵那須文書/同前)に「足利・館林・新田領悉放火」,同年と推定される閏11月20日の上杉謙信書状写(名将之消息録所収/同前)に「義氏様御座所古河并南衆抱候栗橋・同館林,四五ケ所之敵城押通……悉武州敵地放火成壚候」とあるように館林領でも放火を行っている。「天正五年八月十五日より九月朔日まで織田上総介信長公卜於越前,天下分目之御一戦可被成とて御立候条々」とある上杉家中役方大概(安田和泉所蔵文書/富山県史史料編2)に「〈館林城主〉由良信濃守」と見える。天正6年3月13日に謙信が急逝し,上杉氏の圧力が弱まった。この時期当地付近は小田原北条氏の勢力下に入ったと考えられ,天正7年と推定される卯の2月1日の北条家伝馬手形(秋田藩採集家蔵文書45)の宛所に「自小田原上州館林透常陸迄宿中」,翌同8年と推定される辰の9月13日の北条家伝馬手形(県文書/県史資料編7)に「自小田原館林迄宿中」と伝馬所が確立している。天正8年には同年と推定される年未詳10月12日の武田勝頼書状(上杉家文書/同前)に「小泉・館林・新田領之民屋,不残一宇放火」とあり武田勝頼が東上州に進出し,当地などの民家に放火している。勝頼は越後の御館の乱で上杉景勝に味方し景勝から東上州の支配権を委ねられたためである。しかし,天正10年に武田氏が滅亡し,さらにその直後一時上野を支配下に納めた織田信長も6月に本能寺の変で横死すると,小田原北条氏は上州の完全制圧を目指して北上を開始した。これに対し天正10年と推定される年未詳10月11日の北条氏政書状(金室道保氏所蔵文書/同前)に「佐竹出張館林動候」とあり,常陸の佐竹氏は天正10年11月には下野宇都宮氏支援のため出陣し,佐野(現栃木県佐野市)から当地に進出した。しかし,翌年と推定される年未詳12月朔日の北条氏直書状(原文書/同前)によれば,翌年11月には新田・館林・足利口で両軍は激突し,佐竹軍は撃退された。翌12年由良国繁・長尾顕長は突如北条氏によって拘束され,金山・館林両城の明け渡しが命じられたが,両氏ともこれに反発して合戦となった。天正12年と推定される年未詳3月4日の北条氏直書状写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/同前)では富岡秀高に対して,2月29日の注進を見た旨を伝え,「去廿八日新田・館林・足利相談,向其地相動候哉」として近日の出馬を伝えている。このように両城の中間にあった小泉城の富岡氏はこの戦いで小田原北条氏に忠節を尽くして戦ったことから,天正12年6月14日の北条氏充行状(原文書/同前)で館林領の10か所「赤岩 瀬戸井 五賀 中森 野辺 萱野 木崎 狸塚 小曽禰 葉苅」を新田領11か所とともに宛行い,同年と推定される年未詳11月20日の北条氏政充行状(同前)では「館林領内」の望地5か所を宛行うことを約束している。このとき由良氏の属城である五覧田・深沢などで激戦があったが,同年と推定される年未詳7月23日の北条氏直感状(大藤文書/県史資料編7)に「去十九,従館林古海へ相動候処,追崩敵数多討捕之由」とあり,古海で合戦があったことがわかる。同年12月24日の箕輪衆星名小隼人佐に宛てた北条氏照条書(松田文書/同前)によると,翌25日に利根川を越えること,「館林領」での竹木の伐り取りの禁止などが見え,総攻撃がなされようとしていた。この前後の12月21日,12月28日,12月晦日には館林付近の「飯倉」「善導寺」「〈館林〉高根寺」に北条氏照や小田原北条氏の禁制が出されている(竜興寺文書・松雲公採取遺編類纂・善導寺文書/同前)。長尾氏は翌年正月に開城降伏し,足利に退去した。天正13年と推定される年未詳正月4日の北条氏照書状(京都大学所蔵阿久沢文書/同前)に「先番如申新田・館林請取当表如存分候」とあるように館林城は小田原北条氏に接収され,所領の再編が成されている。天正13年11月9日に宇津木氏久・太井豊前・高山遠江守は金山城に在城が命じられたが,その扶持として当地で大藤長門守・森三河守から麦をうけとるよう指示されており(宇津木文書・富田仙助氏所蔵文書・群馬県庁所蔵文書/同前),この両名は館林在城衆であったと考えられる。また,天正13年2月13日の北条家掟書(松本稔氏所蔵文書/同前)によれば,青柳郷は館林の城領と指定されている。富岡氏に対しては同年卯月14日の北条家朱印状(林屋辰三郎氏所蔵原文書/同前)で隠居分2万疋の地が「新田・館林城領中」から与えられた。さらに天正15年霜月19日の北条家朱印状(紀伊続風土記附録10/同前)では梶原源吉に対して「館林領千津井郷八拾八貫八百弐拾文」が,天正16年3月19日,同29日には岩本院・西光院・鶴岡八幡宮・三島愛染院に対して各々「館林弐千疋之地」が寄進された(岩本院文書・西光院文書・鶴岡八幡宮文書・三島神社文書/同前)。以上,館林領内では長尾氏から没収された所領が大幅に再配分されたことがわかる。なお,天正16年と推定される子の6月15日の北条家伝馬手形(関山文書/同前)の宛所には「館林より小田原迄宿中」とある。天正18年には豊臣秀吉の小田原攻めが行われたが,天正17年と推定される年未詳12月28日の北条家朱印状(原文書/同前)によれば,それに備えて富岡氏に当地などの備えを命じている。しかし,天正18年と推定される年未詳4月29日の佐竹義久書状写(秋田藩採集家蔵文書9)によると,この時にはすでに館林城は開城していたことがわかる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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