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浜田郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名新田郡新田荘のうち元亨4年10月7日の関東下知状(長楽寺文書/県史資料編5)によれば,小此木盛光の妻紀氏は「新田庄浜田郷内在家弐宇・田参町・畠柒段」を新田義貞の永代沽却によって入手し,幕府の了承の下知をうけているなお,享徳4年閏4月吉日の新田庄田畠在家注文(正木文書/同前)に「はまたの郷 田二十一町卅たい 畠三町四反十五たい」と見える当郷の成立は平安末期に溯ると考えられる室町期では,応永11年4月7日の新田庄内惣領知行分注文(同前)に「一,浜田郷 矢島村〈浜田郷内〉」と見えるこの文書は新田義貞没落後惣領の立場にあった岩松氏の知行分と公田100町の配分を示したものである当郷は鎌倉期においては新田本宗の所領と推定され,南北朝期以降岩松氏に与えられたものと考えられる矢島村については,村は新田荘成立時の基本単位であった郷に対しその後の開発によって生まれた集落をさすことから,当郷から開発されたものであろう次に享徳年間以降のものと推定される年月日未詳の新田庄知行分目録および新田庄岩松方庶子方寺領等注文は,新田荘内の所領関係を示したものであるが,いずれにも岩松持国の所領のうちに当郷が見える(同前)前者には「浜田郷〈彼郷之内有桃井方〉」とあり,当郷は岩松氏の所領であったが,その中に桃井氏の分もあったことがわかる後者には「一,浜田郷 矢島村〈はまたの郷の内〉」が岩松氏の所領のうちに見えるが,同時に「一,浜田郷 金剛寺領」とも見える金剛寺(尾島町岩松)は,岩松直国は金剛寺殿と呼ばれているところから,直国の創建か菩提寺と推定され,当郷内の地が岩松氏によって同寺に寄進されたものと考えられる「浜田桃井方」に関しては,年月日未詳の岩松持国知行分并闕所注文案(同前)にも見えるこの文書は関連文書によって長禄2年と推定されるこの年5月堀越公方方の岩松家純は古河公方成氏方の持国の来降をすすめる工作を行ったが,その条件として持国はこの注文案で8か条を示したこのときそのうち3か条は認められたが,「浜田桃井方」については認められなかった年代は前後するが,康正3年6月29日の沼尻和泉守宛蓮沼宗員書状(同前)によれば,「浜田郷内在家六間」を与えられた代わりとして一族のうちから御内に一人差し出すことを約束しているまたこの頃と推定される年未詳9月11日の提佐書状(同前)によれば,古河公方足利成氏の命を受けて浜田へ代官を遣わす旨命じているが,詳細は不明戦国期においては,天文22年3月24日の年紀を有する伝法灌頂記下巻の奥書(叡山文庫天海蔵/県史資料編7)に「下浜田吉祥寺」が見える天正12年6月14日の北条氏直充行状(原文書/県史資料編7)に新田領の1つに「浜田」が見えるこの文書は宛所が切断されているが小泉城(大泉町)に拠った富岡氏に宛てたものであることは疑いないこの年,金山城主由良成繁と館林城主長尾顕長(国繁の実弟)は小田原北条氏によって拘禁され,両城の明け渡しを迫られたが,両氏ともこれを拒否して合戦となったこの戦いで両城の中間にあった富岡秀長・秀朝父子は終始小田原北条氏に従ったため,その功によって新田領から11か所,館林領から10か所にのぼる所領が宛行われることを約束されたさらにこの戦いが終了した,天正13年11月10日の北条家朱印状(同前)によれば,隠居分として200貫文を「浜田郷」で与えるとしているが,これも宛所が切断されているものの富岡秀長に宛てたものと推定される現在の太田市下浜田・浜町付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284223