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石戸郷(中世)


室町期から見える郷名県東部,荒川中流左岸に位置する足立【あだち】郡のうち初見は応永15年12月2日の年紀銘のある大里郡折原村婆羅門社の懸仏に「武州足立郡石戸郷下法師谷村」と見える(銘記集)また室町期と推定される「米良文書」所収の年月日未詳の旦那引付注文写に「武蔵足立郡石戸郷伊藤兵庫,同郷伊藤藤二郎,同郷飯野孫七郎,同郷新井神二郎,同郷彦三郎」「石戸郷真如坊」「石戸郷真輪寺」と見え,江戸期の下石戸下村の小名刑部谷の記載によれば,伊豆国(静岡県)伊東の土豪伊東氏の一族が当地に居住していたという紀伊国(和歌山県)の那智熊野神社の先達の旦那であったことがわかる(米良文書/熊野那智大社文書)当時は上杉氏領に入り,天神山城が築かれ,上杉氏の臣藤田八右衛門が城主であったしかし交通の要衝であったため戦国期には上杉・小田原北条氏間で攻防をくりかえし,大永4年4月10日,江戸城(東京都千代田区)を奪取した北条氏綱は当地に伝馬掟を出し,相模と武蔵を結ぶ交通路を押さえた(関山文書/相州古文書)永禄11年2月10日の北条氏裁許印判状に長尾景虎(上杉謙信)が先年石戸に出張(出陣)した旨が見える(武文)戦国期に当郷は石戸・下石戸・高尾・荒井の4か村に分村したと推定されるが,小田原北条氏滅亡後の天正18年9月7日の伊奈忠次印判状には「石戸」のうちの「八幡原・さうしき」の2か所を旗本牧野半右衛門の知行として与えており(武文),江戸期の石戸宿(石戸町)と下石戸村はいまだ一体で,江戸初期に分立したとも考えられる「さうしき」は江戸期の下石戸下村の小名に雑敷が見え,当地のことと推定されているなお「吾妻鏡」に当地名を姓としたとみられる石戸左衛門尉なる人の名が見える現在の北本市石戸宿のあたり




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7285436