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長井荘(中世)


鎌倉期から見える荘園名県北部,利根【とね】川右岸の平野部に位置する幡羅【はたら】郡のうち「平家物語」巻4橋合戦に足利又太郎忠綱のことばとして「武蔵と上野の境に,利根川と申す大河候秩父,足利中違うて常は合戦を仕り候ひしに,大手は長井の渡【わたり】,搦手は故我・杉の渡より寄せ候ひしに」とあり,当地に渡しがあり,武蔵【むさし】から上野【こうずけ】への交通の重要地点であったことがわかる後世「古戸【ふつと】の渡し」といわれるのが長井の渡しであろう荘名としては「吾妻鏡」建暦3年5月7日条に「武蔵国長井庄 藤九郎次郎」とあり,和田の乱の勲功の賞として安達時長に与えられている「女沼村聖天社縁起」によれば,斎藤別当実盛が仁安年中平清盛の命令で関東に下り長井荘を領したと記されており,「平家物語」巻7実盛最後事に斎藤実盛のことばとして「実盛,もとは越前国の者にて候ひしが,近年御領に付けられて,武蔵国長居に居住仕り候ひき」とあり,平氏領荘園であったことは確かであるおそらく平氏滅亡後没官領として源頼朝に与えられ,いつの頃か和田氏の所領となっていたのであろうその後貞治2年6月25日の室町将軍家足利義詮御教書に「森三郎長井庄定使給物」と見え,当荘定使森三郎の給物として高麗【こま】郡笠縁年貢帖絹を渡すよう北方地頭に命じている(武文)当時の高麗郡地頭は高麗経澄であり,翌3年9月18日の室町将軍家足利義詮御教書でも同じことが高麗経澄に命じられている(武文)永徳2年4月20日の長谷河親資軍忠状に「同五月十三日長井吉見御陣令宿直」とあり,永徳元年鎌倉公方足利氏満が小山義政を討った際,所々の陣で宿直をつとめ軍忠を尽くしたことが述べられており,上杉朝宗が証判を加えている(武文)明徳5年6月24日の僧了悟田畠寄進状に「武蔵国波羅郡長井庄」とあり,「長井の柴のうたのすけ殿」の所領であった荘内田島郷の田畠を了悟が買得し聖了寺に寄進している(歴代古案/大日料7-1)宝徳2年8月22日の大江持宗書状に「長井庄聖天堂別当職事」とあり,仁安年中斎藤実盛が創建したと伝える聖天山長楽寺(勧喜院)内聖天堂の別当職を,鶴岡八幡宮の塔頭である相承院の弘俊に寄進し,親類を代官として送り所務を行わしている(相承院文書)「松陰私語」に「長井庄」と見え,文明年間山内上杉顕定の家老長尾忠景とその甥景春が対立し,景春が顕定に反旗を翻した頃,顕定は岩松家純に対し「足利庄・長井庄・大室保」3か所を与えるとの御教書を出し出陣を促したが,家純は従わなかったしかし,家純の子明純は上記3か所の安堵状を顕定に要請し,山内方についているこうした岩松父子の対立は家純が明純を勘当するまでに発展するが,その原因として,同書では文明18年太田道灌暗殺後の山内・扇谷両上杉家の対立の中で,明応3年5月頃明純が勝手に「下野国足利庄六十六郷,長井十二郷」の領知の安堵状を上杉顕定に要求したことをあげており,岩松家は明純の子尚純が継ぐことになった(群馬県史資料編5)北条氏康の作といわれている「むさし野紀行」によれば,天文15年8月13日に「長井の庄」に着いたことが載せられている(群書類従)また「長楽寺永禄日記」永禄8年9月15日条によれば,「長井之南コエ塚」とあり,この日巳から午剋の間に南方衆が南コエ塚へ陣を移している(群馬県史資料編5)荘域は現在の妻沼【めぬま】町を中心とした利根川右岸の平野地域に当たるものと思われる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7288955