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鳩谷郷(中世)


 鎌倉期から見える郷名。足立【あだち】郡のうち。「吾妻鏡」寛元2年3月12日条に「武蔵国足立郡内鳩谷地頭職事」とあるのが初見。「鳩谷兵衛尉重元」が鳩谷郷地頭職をめぐる相論で再審議を求め,幕府もこれに応じて相手方に問状を出すことになっているが,建長8年6月2日条には「鳩井兵衛尉跡」とある。この頃より「鳩井」と「鳩谷」は混用され,戦国末期に及んだ。鳩谷氏一族は長く鳩ケ谷辺に住しており,康暦・応永年間,埼玉郡栢間村(現菖蒲【しようぶ】町)に住した鳩井美濃三郎義景,永禄13年の同村正法院熊野社棟札にある鳩井鍋殿,また足立郡菅谷村の鳩谷修理館跡などがある。文永9年正月16日の僧良忠譲状によれば「免田武州(在鳩井)」が弟子の良暁に譲られている(光明寺文書/川口市史)。この免田は「故武州前判(刺カ)史」(誰かは不明だが,この頃武蔵守は北条氏一門が独占している)の極楽往生を願って寄進されたものであり,鳩井郷は北条氏一門の所領となっていたと考えられる。川越市喜多院蔵の古鐘(国重文)の銘に「武蔵国足立郡鳩井郷 筥崎山,依悲母命鋳之,正安二年庚子三月十八日 沙弥慶願 大工源景恒」とあり,鳩ケ谷郷の地域は近世鳩ケ谷町よりははるかに広く,筥崎山(浦寺,現在の桜町)あたりも鳩ケ谷郷内であったらしい。これは室町期の成立という市場之祭文の応永22年7月20日の追記に「鳩谷之里」(現鳩ケ谷市里)とあることからもうかがえる。文明28年僧堯恵の「北国紀行」(群書類従)には「鳩井の里滋野憲永がもと」とあり,室町期には滋野憲永が領主であったという(新編武蔵)。千葉県松戸市小金の「本土寺過去帳」(続群書類従33~34・日蓮宗宗宝調査報告「過去帳」)明応7年3月13日に「小宮山三郎妙義鳩谷」などとあり,「新編武蔵」によれば,小宮山氏は天正年間足立郡見沼領戸塚村の領主である。天正7年6月20日の北条家印判状には北条氏の家臣笠原助八郎領中百姓の訴訟に,「一之筆」(筆頭署名者)鈴木勘解由だけを断罪し,「鳩ケ谷百姓 船戸大学助」をはじめとする他の百姓たちは赦免しているが,その中に「如太田時無相違可致百姓」という文言があり(船戸家文書),小田原北条氏以前は岩槻太田氏の支配下にあった。天正12年大学助は高野山で出家(号道隣),その子孫は近世鳩ケ谷宿の問屋・本陣役を兼帯している。同18年7月には「多東郡足立庄内鳩井村」へ豊臣秀吉の制札が出された。現在の鳩ケ谷市桜町・本町・坂下町・里あたりの一帯と推定。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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