鳩ケ谷宿(近世)

江戸期~明治元年の宿名。足立郡舎人領のうち。古くは鳩井郷に属したという。幕府領。元禄年間頃までは鳩ケ谷町と称した。検地は元禄10年と享保16年。村高は「天保郷帳」406石余で,幕末まで変わらず。宿場の規模は東西10町・南北8町余。化政期の家数180軒余。見沼代用水を利用。日光御成街道の宿場町で,南は川口宿から1里15町,北は大門【だいもん】宿へ1里25町の継立。人馬は各々25人・25匹。地子免除の地2町8反がある。定助郷は12か村3,080石。加助郷は20か村3,428石。慶長5年徳川家康が上杉景勝征討のとき日光御成街道を通り,それが吉例であるとして日光造営ののち日光御成街道の宿駅を定めたという。毎月3・8の日の六斎市が立つ。鎮守は氷川社。他に弘治2年の鰐口を所蔵する浅間社がある。寺院は曹洞宗千手院と新義真言宗源性寺。高札場は1か所。小名には,上宿・中宿・下宿・坂下・的場耕地・後谷耕地・町屋原・稲荷前耕地・沼田耕地・宮ノ下耕地がある。旧家は船戸氏を称する喜市家で,戦国期の船戸大学の子孫と伝え,名主・本陣役を兼帯し,問屋を営んだ。明治元年鳩ケ谷町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7289556 |