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臼井郷(中世)


 鎌倉期から見える郷名。下総国のうち。天福2年正月12日の太神宮司庁宣(小朝熊神社鏡沙汰文/鎌遺4601)に「下総国臼井郷住人南無妙房」とあるのが初見。熊野詣に来た当郷住人南無妙房が,伊勢内宮内小朝熊神社の神鏡2枚を盗み,同国大古曽(現三重県津市)の地頭右馬允のもとに身を寄せたことが見える。元弘元年12月25日の長井頼秀室尼しようねん譲状(毛利家文書4/大日古)によると,臼井の堀の内の名田・在家を長井貞頼に譲っており,鎌倉期には当郷は同氏相伝の所領であったと推定される。また鎌倉末期から室町期には当郷を中心とした臼井荘の名が見え,この臼井荘の荘域は現在の佐倉市から八千代市・船橋市にまでまたがるものであった。下って,小田原北条氏の家臣遠山直景の大永2年5月9日付伝馬手形写(武州文書/神奈川県史資料編3)にも臼井の名が見え,当地は江戸・浅草・葛西新宿とならぶ交通上の要地であったことがうかがえる。当郷内の臼井城は,千葉氏の一族常康にはじまり,その後「吾妻鏡」にも見える臼井氏が鎌倉期に築き,永禄4年まで同氏が,その後原氏が居城したといわれ,戦国期には争乱がくり返された。文明12年頃と推定される太田道灌状(国学院大学所蔵文書/武州古文書下)によると,太田道灌は千葉自胤とともに文明10年末から翌年にかけて,千葉孝胤を臼井城に攻めている。また,永禄8年2月18日の酒井胤治書状案(河田文書/神奈川県史資料編3)によると里見方の酒井胤治が守る土気城を攻めた北条軍の中に「臼井衆」として原弥太郎・渡辺孫八郎・大畑半九郎などの名が見える。一方,里見氏と同盟していた上杉謙信は里見氏救援のため,永禄9年3月には小田原北条方の原胤貞の守る臼井城を囲んだ。同年3月20日の長尾景長の書状(鑁阿寺文書/神奈川県史資料編3)には同城の落城は間近であると見え,一方同25日・28日の北条氏政や北条氏と結ぶ古河公方足利義氏の書状などによると,上杉方は数千名の手負・死者を出して敗北したと見える(諸州古文書・豊前氏古文書抄/同前)。北条氏政は4月12日臼井城救援に遣わした蔭山新四郎や松田肥後守に感状を与えている(相州文書/同前)。この時同城は落城せず,天正18年まで原氏が在城したことが確認される(安得虎子・毛利家文書/同前)。この間天正2年3月25日には原式部大輔胤栄が「臼井庄本城妙見堂」に金灯炉を奉納し(県史料金石1),天正11年には当地から高野山への登僧のため北条氏から朱印状が出されている(西門院文書/県史料県外)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7291792