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大戸荘(中世)


 平安末期から見える荘園名。下総国のうち。長寛2年6月日付関白左大臣(近衛基実)家政所下文に「大戸・神崎并小野・織服村」を香取社大禰宜大中臣真(実)房に知行せしめる旨が命じられている(旧大禰宜家文書/県史料香取)。これより先,応保2年6月3日付大禰宜実房譲状で,実房嫡子惟房に「末社大戸宮神主并社領」が譲与されているが,この社領が当地に当たると考えられる(同前)。大戸社は香取神宮第一の摂社であり,その社領は実房の親父助員の代に藤原氏長者であった関白後二条師通が宣旨を申し下して設定し,大禰宜家の所領となったという(旧大禰宜家文書年欠大禰宜真平譲状/県史料香取)。文治2年の関東知行国乃貢未済荘々注文には殿下(近衛家)御領として「大戸・神崎」が見えている(吾妻鏡文治2年3月12日条)。以後,当荘は神崎【こうざき】荘とともに代々大禰宜家に相伝された。鎌倉後期に大中臣氏が一族内で所職・所領を争い,嘉元元年4月22日に大中臣実康・実秀・実胤・実幹らが和与した際には,当地の神祭物は各人が4分の1ずつ勤仕すべきことが定められた(旧大禰宜家文書/県史料香取)。大戸・神崎両荘は建久4年4月6日付官宣旨に「雖為庄号……当社造替之時,令□(勤)仕彼雑事等者,是先例也」とある如く,平安期から香取社式年遷宮の所役を賦課されており,両荘から出す作料米200石をもって,香取社の【あさめ】殿を造営する規定であった(香取神宮文書/県史料香取)。建久8年と推定される香取神宮遷宮用途注進状には「依宣旨支配作料国中庄々」として「大戸・神崎二百石」とあり(香取旧大禰宜家文書/鎌遺960),寛元元年11月11日の香取造宮所役注文には「一,殿社一宇〈大戸庄国分小次郎跡・神崎庄千葉七郎跡〉」と見える(香取神宮文書/県史料香取)。また,鎌倉後期と推定される年欠造宮用途注文(香取神宮文書/鎌遺9257)や南北朝期の康永4年3月日付造宮所役注文(香取神宮文書/県史料香取)にも同様の記載がある。寛元元年の所役注文に「国分小次郎跡」とあるように,当荘の地頭は千葉一族国分氏である。国分氏はその祖胤通(千葉常胤第5子)の子息常義の代に,「大戸・矢作領主」となり,当荘内に勢力を広げた(千葉大系図/房総叢書)。また,荘内牧野村などには山名氏の関与も見られる(観福寺文書応安5年11月2日付沙弥智兼補任状/房総叢書)。しかし,戦国末期になると,安房里見氏の重臣正木氏の攻撃などによって国分氏は次第に衰え,天正14年(一説に永禄8年)に正木大膳によって本拠矢作城(現大崎)は落城した(佐原市史)。次いで,天正18年5月,小田原北条氏攻略に際して,豊臣秀吉の家臣浅野長政・木村重茲らが「下総国大戸庄六ケ村」に対し,軍勢濫妨停止の禁制を発し(大戸神社文書/房総叢書),翌天正19年12月7日には「下総国香取郡大戸御神領御見知之水帳」が作成されている(香取大禰宜家文書/香取文書纂)。中世史料に当荘内として見える郷・村には,牧野村・大崎村・与倉村・観音村・山野辺村・岩崎村・関戸村・宮本村・小河村・堀籠村・鴇崎などがあり,また,近世には西部田村・関村・桜田村・本矢作村・長山村などが大戸荘と称された。これから考えて,当荘域は現在の佐原市南西部から大栄町東北部にかけて,東限を小野川左岸(現佐原字新宿側)・同支流香西川左岸,西限を大須賀川右岸(一部左岸におよぶか)とする下総台地北縁部に位置したと推定される。なお,応永7年の海夫注文に見える「せきとの津」「いわかさきの津」「なかすの津」などは当荘内の津であるか(旧大禰宜家文書/県史料香取)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7292131